■偽情報対策組織の整備へ 2024年度以降、内閣官房に設置で調整
毎日新聞 2023/1/25
https://mainichi.jp/articles/20230125/k00/00m/010/099000c
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松野博一官房長官は25日午前の記者会見で、外国による偽情報に政府横断で対応する新組織を整備する考えを明らかにした。
昨年末に改定した国家安全保障戦略に基づく措置で、偽情報の拡散への対処能力を強化する。
2024年度以降、内閣官房に設置する方向で調整する。
松野氏は「偽情報の拡散は、普遍的価値に対する脅威であるのみならず、安全保障上も悪影響をもたらし得る」と指摘。「外国による偽情報に関する情報の集約、分析、対外発信の強化、政府外の機関との連携の強化のための新たな体制を政府内に整備する」と述べた。
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偽情報対策組織の整備へ 2024年度以降、内閣官房に設置で調整
毎日新聞 2023/1/25
https://mainichi.jp/articles/20230125/k00/00m/010/099000c
■学術会議6氏任命せず 看過できない政治介入だ
毎日新聞 2020/10/3
https://mainichi.jp/articles/20201003/ddm/005/070/108000c
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日本学術会議の会員改選で、推薦された候補者105人のうち6人を、菅義偉首相が任命しなかった。
1949年の会議創設以来、極めて異例の事態だ。
6人はいずれも人文・社会科学の専門家だ。安全保障法制や「共謀罪」創設など、安倍晋三前政権の重要法案について批判的な意見を述べたという共通点がある。
過去の発言に基づいて意に沿わない学者を人事で排除する意図があったとすれば、憲法23条が保障する「学問の自由」を侵害しかねない。
首相は今回の措置を撤回すべきだ。
学術会議は、優れた研究や業績のある科学者で構成される。
全国87万人の研究者の代表機関であり、「学者の国会」とも呼ばれる。
活動費は公費で賄われるが、日本学術会議法にその独立性が明記されている。
(中略)
先の戦争で、多くの科学者が政府に協力させられた。
軍部が湯川秀樹ら物理学者に原爆開発を命じたことは広く知られる。
思想統制を進める上で障害となる学者は排除した。
京都大の法学者が弾圧された滝川事件や、「天皇機関説」を唱える学者が不敬罪で告発された事件がその典型だ。
こうした反省に立って、学術会議は作られた。
あらゆる分野の専門家が立場を超えて集い、政府への勧告などを行ってきた。
ノーベル賞受賞者の朝永振一郎が会長だった67年には、軍事研究に関与しないとの声明を出した。
50年後の2017年にも、軍事転用が可能な研究への関与に慎重な姿勢を改めて示した。
政府は科学技術振興を国の成長戦略の柱と位置づける。
一環として防衛装備庁は、軍事転用が可能なロボット技術研究などを支援する制度を創設した。
だが、学術会議の声明の影響もあって、応募は思うように増えていない。
政府が今後、人事権を突破口に自然科学へも介入を始める可能性は否定できない。
国立大の学長人事にも影響が及びかねないとの懸念が出ている。
・危険な人事統制の拡大
安倍前政権は、内閣人事局を通して中央省庁幹部の人事を一元管理し、官僚統制を強めた。
政権の意に沿う者だけが重用され、異論を唱えれば冷遇される。
そんな空気に官僚は萎縮し、政と官の関係はゆがんだ。
その中心にいたのが官房長官だった菅氏である。
象徴的なのは、内閣法制局長官の人事だ。
集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更に備え、内部昇格の慣例を破って外務省出身の容認派をトップに据えた。
検察庁の人事でも、「首相官邸に近い」と目された元東京高検検事長の定年を、法解釈を変えて延長した。
通底するのは「私たちは選挙で選ばれている」という、前政権から続く意識だ。
選挙で勝てば全て白紙委任されているとの発想につながっている。
だが、権力は本来、抑制的に行使すべきものだ
菅首相は、政権の決めた政策に反対する官僚は「異動してもらう」と明言し、都合の良い人物を要職に就けることで政策を進めようとしている。
既に、強引な手法の弊害が明らかになっている中、学術界にもそれを持ち込もうとするなら看過できない。
科学は文化国家の基盤だ。
異論や反論を排除しない自由な環境から科学は発展する。
そうした環境が損なわれるようでは、日本の未来はない。
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学術会議6氏任命せず 看過できない政治介入だ
毎日新聞 2020/10/3
https://mainichi.jp/articles/20201003/ddm/005/070/108000c
■憲法と学問の自由 迫害の歴史の果てに
東京新聞 2020年11月4日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/66202
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学者の研究や学説、あるいは意見に対し、国家権力が迫害を加えた事例はいくらもあります。
日本では戦前の滝川事件がそうです。
一九三三年に京都帝大の刑法学者・滝川幸辰(ゆきとき)教授の講演や著書に危険思想があるとして、休職処分にされた事件です。
法学部の教授たちは抗議して辞表を提出。当時の新聞には「京大法学部は閉鎖の運命」などの見出しが躍りました。
三五年には天皇機関説事件がありました。
国家を法人にたとえ、天皇はその最高機関である。
そんな美濃部達吉氏の学説を右翼などが攻撃しました。
美濃部氏は公職を追われ、著書も発禁となりました。
やがて日中戦争、太平洋戦争です。
戦争への序曲に「学問」への弾圧があったのです。
・自由への政治介入だ
明治憲法にない「学問の自由」が、なぜ日本国憲法に定められたのか。
名高い憲法学者の芦部信喜氏は「憲法」(岩波書店)で、滝川事件や天皇機関説事件を引きつつ、こう記しています。
<学問の自由ないしは学説の内容が、直接に国家権力によって侵害された歴史を踏まえて、とくに規定されたものである>
学問研究や発表の自由にとどまりません。
自由な研究を実質的に裏付けする研究者の身分保障、さらに政治的干渉からの保護?条文にはそんな意味があります。
学問領域には自律がいるのです。
憲法制定当時の議論も振り返ってみます。
四六年の衆院で新憲法担当大臣の金森徳次郎氏は中国・始皇帝の焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)や、ダーウィンの進化論、天動説・地動説の論争を採り上げて答弁しています。
<公の権力を以(もっ)て制限圧迫を加えない。(中略)各人正しいと思う道に従って学問をしていくことを、国家が権力を以て之(これ)を妨げないことです>
実は金森氏自身が天皇機関説事件に巻き込まれました。
当時、法制局長官だった金森氏は帝国議会で「学問のことは政治の舞台で論じないのがよい」と答弁し、自著にも機関説の記述があったため、議会でつるし上げられ、三六年に退官に追い込まれたのです。
「学問の自由」は弾圧の歴史を踏まえた条文だと当時は誰もが思っていたことでしょう。
さて日本学術会議の会員に六人の学者が首相によって任命を拒否された問題は混迷を極めています。
なぜ拒否したのか首相は国会でも明言を避け、暗に政府を批判する者は排除するがごとき風潮をつくっています。
むろん多くの団体などが「違憲・違法な決定だ」と抗議の声明を発表しています。
「自由への介入」で、権力の乱用にあたると考えます。
何より歴代政権も「首相の任命は形式」だったのですから。
どんな理由があれ、法令の読み方に従い、学術会議の推薦どおり首相は任命すべきです。
そもそも学者の意見は、仮に政府と正反対であっても、専門性ゆえに尊重すべきです。
原子爆弾に結びつく理論の発見をしたアインシュタインも戦後、英国の哲学者ラッセルとともに核廃絶と科学技術の平和利用を訴えた宣言を出しました。
人類への忠告でした。
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憲法と学問の自由 迫害の歴史の果てに
東京新聞 2020年11月4日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/66202
■戦前・戦時期日本の放送規制―検閲・番組指導・組織統制―
刊行物『NHK放送文化研究所 年報2020 第64集』
NHK:2020年1月30日
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/history/20200130_1.html
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戦前・戦時期の放送規制をめぐっては、社団法人・日本放送協会が人事や予算面で政府の統制下に置かれ、さらに、検閲によって番組内容についても厳しく統制されたといった形で整理がなされることが多い。
しかし、この間、政府と放送協会との関係は一定ではなく、検閲の実態も時期による差異が見られる。
このため本稿では、放送開始から太平洋戦争終結までを、▽1925年~1934年、▽1934年~1937年、▽1937年~1945年の3期に分け、監督官庁(逓信省、情報局)や放送協会の文書などに拠りつつ、放送規制の変化とその要因について検討した。
まず、1930年代初めまでは、各地に置かれた放送協会の支部の独立性の高さもあって、中央からの統制が効きにくい状態にあった。
規制は、逓信省の出先機関(逓信局)によるニュース原稿や台本の検閲が中心だったが、地方では体制が手薄で、指摘事項に反した放送が行われた際の遮断措置も不完全だった。
このため、1934年に逓信省主導で放送協会の機構改革が図られ、支部制が廃止されるなど組織面の中央集権化が図られた。
さらに全国向け番組の決定に逓信省が関与する仕組みが設けられ、国策に沿った番組編成が可能となった。
他方、放送現場に近い場所で行われる検閲は、風俗壊乱の防止や不偏不党の維持といった消極的規制にとどまった。
しかし、1937年に日中戦争が始まり、総力戦体制が進展すると、監督当局からは積極的に番組指導を行うべきとする見解が示されるようになり、監督当局と放送協会の関係も、監督・被監督の関係から、両者が協力して国策に合致する情報を発信していくものに変化した。
あわせて内容規制の重点は、検閲による風俗壊乱などの取締りから、戦争目的に沿った番組指導に置かれるようになった。
こうした経緯からは、放送規制は、検閲のみによるのではなく、組織面に対する統制と組み合わされて機能してきたことがわかる。
とりわけ放送協会の中央集権化や、監督当局と放送協会との関係の変化は、規制の実質的な内容に影響を及ぼした。
戦時下、国策に沿った放送がなされた要因を考える上では、検閲に代表される内容規制にとどまらず、それ以外の間接的な規制も考慮に入れる必要がある。
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戦前・戦時期日本の放送規制―検閲・番組指導・組織統制―
刊行物『NHK放送文化研究所 年報2020 第64集』
NHK:2020年1月30日
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/history/20200130_1.html
■私たちは戦前を本当に知っているか…落書から見えた「反戦」のリアル
特高警察は便所の壁まで監視していた
週刊現代 2019.08.21
https://gendai.media/articles/-/66636?imp=0
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・ひそひそ話や便所の落書まで記録され…
特別高等警察は、1929年(昭和4年)または1930年(昭和5年)より、内部資料として『特高月報』を出版し、共産主義・無政府主義、国家主義(右翼)、農本主義、宗教、水平運動(被差別部落)、朝鮮人・台湾人、外国関係……と、当時の政治的な運動ほぼすべての監視記録をまとめていた。
1935年(昭和10年)頃の共産党壊滅、その翌年の2.26事件など、社会情勢に合わせて特高の活動そして特高月報の内容配分も変化したが、その中でも1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件(日中戦争勃発のきっかけ)発生直後に、所謂庶民の反戦的な「活動」とそれに対する摘発を掲載する欄が登場する。
堂々とした反戦の叫びから、ひそひそ話、便所の落書まで、庶民の本音と空気が「特高月報」を通じて今に伝わっている。
また注目すべきはその掲載開始時期で、盧溝橋事件の時点では未だ今後の情勢がどうなるか、果たして現地軍で休戦するのかそれとも(史実の様に)より大きな戦闘、ひいては全面衝突状態に繋がるのかも不明な内から、庶民は戦争を感じ取っていたことが分かる。
そして特高警察もその摘発を通じて最も早く庶民の「不安」に向き合う組織となったのである。
今回は特に反戦的な落書に注目して、戦時中の庶民が抱いていた心理の一端に迫ってみたい。
・当時の空気、その恐ろしさ
今度出版した『戦前反戦発言大全』『戦前不敬発言大全』の前身である、Twitterアカウント「戦前不敬・反戦発言bot」を運営していく中で、特に落書に対してその初期からよく「まるで今のSNSだね」と感想をいただいた。
いつの時代も、落書は(その行為の是非はともかくとして)やはり、最も当時の生活に密接した空気を映す鏡の一つと言える。
他にも新聞・雑誌への投書、手紙、日記などにもそれを見出すことはできるだろうが、投書や手紙とは生々しさ(下品さとも言えるが)の点で、日記とは「他人に見せたい」という意図の点で、やや面白味が異なりそうだ。
私がBotとしてまとめ始めたきっかけも、最初はこのような本音に興味本位の関心を持っていたからである。
しかし、すぐにその奥深さと、やはり単に笑ってはいられない時代の空気の恐ろしさにも気付かされることになる。
権力は、不満が伝播することを何よりも恐れていた。
特高警察は便所の隅のほんのちょっとした不満の落書にも、その場所・経緯から執筆用具まで事細かに記録している。
落書への対処自体は現代の警察でも行われていることではあるだろうが、それが単なる器物損壊ではなく、恐るべき思想犯・不敬犯として処理されたことに、気を付けておきたい。
保守的な人々が、特に戦前・戦中の出来事に関して「現代の価値観で過去を断罪してはいけない」とか「日本人が忘れてしまった・思い出すべき『心』があるのではないか」などと言及するのをよく見る。
その論理の是非についてはここでは触れないが、これから紹介する落書も、すべてまごうことなき当時の「価値観」そして「心」ではある。
1937年7月7日の盧溝橋事件発生後、その直後の特高月報に庶民の反戦発言に関する欄が掲載され始める。
幾度となくあった国民党政府との不拡大・停戦の機会を逃して広がっていく戦線と、それに合わせて進行する戦時体制化や招集は、民衆の心に大きな不安を与えた。
しかし、満州事変以後の軍部の伸長により、新聞や雑誌といったメディアは萎縮して軍部に協力するようになっており、社会や戦争に対して疑問を呈する場は失われていた。
有名な治安維持法以外にも、不敬罪、陸軍刑法、(太平洋戦争勃発直後に制定された)言論出版集会結社等臨時取締法など、言論に対する様々な抑圧が存在した。
だが、明治維新以前から、人目に付く辻に政治風刺の歌を書いた匿名の立て札を置く「落首」や、同じく政治批判のために文書を掲示する「落書(らくしょ・おとしがき)」など、権力の圧力を避けて意見表明をする伝統は日本にもあった。
規制が行くところまで行き着いた社会においても人々は抵抗の意思を見せていたのである。
ーーー
(昭和12年)七月末施行の京阪神地方防空演習に際し大阪市大正区大正防護分団本部団員控室として使用せる大正尋常小学校内教室の黒板に「出征兵士負けて帰れ、後に来るもの貧民の生活難」との反戦反軍的落書あるを発見す。(厳探中)特高月報 昭和12年8月号 大阪府
広島県下海田市町省線海田市駅構内共同便所内に「資本家の手先となった新聞、ラヂオ、映画等で外国が悪い様に宣伝して戦争をしかけるそして利益は自分等が取る戦地で死ぬのは誰だ、国家の為だのやれ忠義だのとおだてられて機関銃の的となる農民労働者よ云々」と反戦落書あるを発見す。(厳探中)
特高月報 昭和12年8月号 広島県
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共産党が地下活動を余儀なくされて以降も、影響を受けていた一部の人々は市井で反戦活動を続けた。
また、実際に徴兵徴集されるのは下層民ばかりであるという不満も燻っていた。
戦前の徴集の実態については『戦前反戦発言大全』のコラムにて解説しているので興味のある方は参照して欲しい。
さらに、後者ではメディアの影響について言及している点も注目である。
テレビやインターネットが現れて以後も、情報に惑わされるばかりという点では我々もそう変わってはいなさそうだ。
・今以上の格差に疲弊していた
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(昭和12年)九月二十日富山県下富岩鉄道越中岩瀬駅構内便所内腰板に「世の中は不思議だ 箸より重いものは何も持ったことのない奴が毎日酒を飲み毎晩妾を何人も抱いているかと見ると日給九十銭の職工が紙一枚で戦場へ引張られ真闇中で機関銃の音と共に誰にも知られずに死んでいる、生れる時は同じ姿で生れた人間がこれは何故だろうか、本当に何故だろうか、戦争は妾を何人も抱いた金持が利権を得る為に行われる、金持に酒を飲ませ人を抱かせる為に貧乏人が死ぬ、同じ人間だのに鳴呼同じ人間だのに資本主義の恐ろしい醜い一断面だ、金持を戦場に送れ、いやいやと彼等は言う、戦争は金が要る、貧乏人の喫う煙草が上がる、全く世の中は不思議だ、東岩瀬町住民」と落書あるを発見す。特高月報 昭和12年10月号 富山県
(昭和12年)十二月二十二日佐賀県警察署留置場内に「他国トノ交戦何故に数万ノ人間ヲ殺シテヤルカ一家ノ柱石ヲ殺シテ金デ償エバソレデヨイカ」と落書しあるを発見す。(捜査中)社会運動の状況 昭和12年号 佐賀県
ーーー
「犯人」がこれを書いているとき、また特高警察がそれを調査するとき、彼らは何を考えたのだろうか。
経済や機会の格差、また地方と都市の格差が今以上に離れていた当時のことを考えると、とても切実な文章である。
太平洋戦争以前に、日中戦争の戦線が北支(中国北部)に広がり始めた時点で、すでに地方民衆は疲弊していた。
そして戦地の中国大陸では激戦の末、1937年12月に日本軍は国民党政府の首都南京を占領したものの、蒋介石は屈服せずに内陸へ遷都し、抵抗を続けた。
短期決戦の目論見は外れ、物資確保と社会統制の為に1938年(昭和13年)に国家総動員法が制定されて以降、民需は切り捨てられ、人員と資源はほぼすべて軍需に注がれることとなった。
労働者たちの多くは兵士にはならなくとも徴用によって以前よりも悪い労働環境に置かれることとなり、さまざまな物資・生活用品も配給制に切り替えられていった。
・率直に思いを表せる場所は便所の壁だけ
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客月二十九日倉絹岡山工場便所内に「ストライキをやる為には強い団結が必要なのだ総親和の叫ばれて居る現在に於て資本家側のあくなき搾取に注目せよ!! 明るい日本建設のために国民の九割九分を構成している勤労階級の幸福のために断固として正義の戦をやろうぞ みんな元気を出せ 便所ハ我等ノ伝言板ナリ 僕ワモウ二十日シタラヤメルノダ ナンダコノインチキ会社ワ 君ラワイツマデオルカンガエカ吉川ヲハンゴロシニセヨ! ストライキヲ起セ 給料ヲ上ゲヨ ストライキ長 便所ハ我等ノ伝言板ナリ有効ニ使エ」と落書しありたり(捜査中)特高月報昭和14年7月号 岡山県
京都市中京区三條通島津製作所二条工場内職工用便所内腰板に黒鉛筆にて「(イ)世の中の住みにくさ、島津はましてだ(ロ)退職すると言へばぐずぐず言うし給料は上げやがらぬしこれで職工が働くと思うか一般なみにしろ、そうでなきゃ会社のさぼを続けるぞ 現業員諸君宜しくこの主旨に参加せられんことを望む(ハ)君の意思に僕も賛成だ」と落書しあるを発見す(捜査中)特高月報昭和16年8月号 京都府
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駅や図書館から工場まで、落書の場所はさまざまだが、「便所ハ我等ノ伝言板ナリ有効ニ使エ」とはまさに落書に至る人々の心情を良く表しているだろう。
勇気ある人は別として、政治・戦争への批判も、労働環境への不満も、率直に表せる場所は便所の壁だけになっていた。
落書同士でコミュニケーションが行われているらしき点もおもしろいと同時に、問題意識を共有するために人々がどれだけ苦労していたかも伝わってくる。
特高警察は1940年以前の時点で、民衆の疲弊を認めざるを得なくなっていた。
だが日本は、アメリカ・イギリスとの絶望的な戦争に向かって行くこととなる。
・「特高」的なものは現代にも残っている
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本月十六日より六月二日迄の間に於て山形高等学校自治寮便所内に、「1 高校は将来陸士化されんとして居る、山高には山高の進むべき道がある。高校生活の理解出来ぬ馬鹿野郎は陸士へでも行くが良い2 荒木文相よ事の起らん中に辞職せん事を望む3 高校潰れて自治寮焼けて校長コレラで死ねばよい 武家政治下に憎む一高校生」と落書しあるを発見す。(捜査中)特高月報昭和14年5月号 山形県
※「~コレラで死ねばよい」は、戦前日本各地の工場に勤めた女工たちの不満を歌う「女工小唄」の一説である。
七月二十九日樺太本斗町中通南一丁目先支庁脇公衆便所内に、「食糧不足につき人間製造中止」と落書あるを発見す。(犯人捜査中)特高月報昭和18年8月号 樺太(一)七月二十四日食糧営団市川支所門柱看板を裏返し左記落書を為したる者あり。「アノネーミナサン米自由販売しますワシャカナワンヨ」 (二)同日同様手口にて砂糖卸商業組合市川配給所に左記落書を為す。「本日砂糖自由販売所 自十時至十七時迄」(捜査中)特高月報昭和19年7月号 千葉県
※「ワシャカナワンヨ」は、戦前の大スター高勢実乗(アノネノオッサン)の有名なギャグ。
「落首」がそうであったように、戦時中の落書にもユーモラスな物は数多くあった。それぞれご覧の通り、教育に対する軍部の圧力(粛学)や、食糧不足といった深刻な背景があるが、単に笑うのも良いだろう。
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だが、こういったものですら監視・記録されたこと、これらの落書の一つ一つには重大な背景が存在すること、今でも「特高」的なものは形を変えて存続していることは忘れないようにしたい。
これらの「言論の不自由」がいつまでも過去の出来事であることを願いつつ。
興味のある方はぜひ、戦前庶民の落書・投書・言動・行動ほかさまざまなホンネを合計1200ページにまとめた拙著『戦前反戦発言大全』『戦前不敬発言大全』を手に取っていただきたいと思う。
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私たちは戦前を本当に知っているか…落書から見えた「反戦」のリアル
特高警察は便所の壁まで監視していた
週刊現代 2019.08.21
https://gendai.media/articles/-/66636?imp=0
■開戦の日に考える 鶴彬獄死の末にある戦
東京新聞 2020年12月8日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/73025
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鶴彬(つるあきら)という川柳作家をご存じでしょうか。
日本が戦争へと突き進む中、貧困と反戦を詠み、治安維持法違反で逮捕、勾留中に病死しました。
苛烈な言論統制の末にあったのは…。
七十九年前のきょう破滅的な戦争が始まります。
鶴彬(本名・喜多一二(かつじ))は一九〇九(明治四十二)年一月、石川県高松町(現在のかほく市)に生まれました。
尋常小学校や高等小学校在校中から地元新聞の子ども欄に投稿した短歌や俳句が掲載されるなど、才能は早くから知られていたようです。
・貧困、社会矛盾を川柳に
喜多の作品が初めて新聞の川柳欄に載ったのは高等小学校を卒業した翌二四年の十五歳当時、進学の夢がかなわず、伯父が営む機屋で働いていたときでした。
<静な夜口笛の消え去る淋しさ>(二四年「北国柳壇」)
「蛇が来る」などと忌み嫌われた夜の口笛を吹いても、何の反応もない寂しさ。
少年期の感傷的な心象風景が素直に表現された作風がこのころの特徴でしょう。
翌年には柳壇誌に作品が掲載され、川柳作家として本格デビューを果たします。
その後、多くの川柳誌に作品を寄せるようになりました。
このころはまだ柳名「喜多一児(かつじ)」や本名での投稿です。
十七歳の時、不景気で伯父の機屋が倒産。
大阪に出て町工場で働き始めた喜多を待ち受けていたのは厳しい社会の現実でした。
喜多の目は貧困や社会の矛盾に向けられるようになります。
<聖者入る深山にありき「所有権」>(二八年「氷原」)
このころ都市部では労働運動、農村では小作争議が頻発、政府は厳しく取り締まります。
持てる者と持たざる者、富める者と貧しい者との分断と対立です。
修験者が入る聖なる山にも俗世の所有権が及ぶ矛盾。
そこに目を向けない宗教勢力への批判でもありました。
・反軍、反戦を旺盛に詠む
十九歳のとき大阪から帰郷した喜多は、生産手段をもたない労働者や貧農、市民の地位向上を目指す無産運動に身を投じ、特別高等警察(特高)に治安維持法違反容疑で検束されます。
その後、故郷を離れて上京、柳名を「鶴彬」に改めたのも、特高の監視から逃れるためでもありました。
兵役年齢に達した二十一歳の三〇年、金沢の陸軍歩兵第七連隊に入営しますが、軍隊生活が合うわけはありません。
連隊内に非合法出版物を持ち込んだ「赤化事件」で軍法会議にかけられ、大阪で刑期二年の収監生活を送ります。
刑期を終え、除隊したのは三三年、二十四歳のときです。
このときすでに日本は、破滅的な戦争への道を突き進んでいました。
三一年には満州事変、三二年には海軍青年将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件、三三年には日本は国際連盟を脱退します。
この年、自由主義的刑法学説をとなえていた滝川幸辰(ゆきとき)京都帝大教授に対する思想弾圧「滝川事件」が起こり、学問や言論、表現の自由への弾圧も苛烈さを増します。
しかし、鶴がひるむことはありませんでした。軍隊や戦争を批判し、社会の矛盾を鋭く突く川柳を作り続けます。
<万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た>
<手と足をもいだ丸太にしてかへし>
<胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき>
召集令状一枚で男たちは戦場へ赴き、わが家に生還しても、ある者は手足を失い、妻の胎内に新しいわが子の生命の胎動を知るころに遺骨となって戻る男もいる。
鶴が川柳に映しだした戦争の実態です。
いずれも三七年十一月「川柳人」掲載の作品です。
特高はこうした表現を危険思想とみなし、同年十二月、治安維持法違反容疑で鶴を摘発し、東京・中野区の野方署に勾留しました。
思想犯に対する度重なる拷問と劣悪な環境。鶴は留置中に赤痢に罹(かか)り、東京・新宿にあった豊多摩病院で三八年九月に亡くなりました。
二十九歳の若さでした。
川柳に続き、新興俳句も弾圧され、表現の自由は死に絶えます。
・戦争へと続く言論弾圧
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、この社説の見出し「鶴彬/獄死の末(さき)に/ある戦(いくさ)」も五七五の川柳としてみました。
学問や言論、表現に対する弾圧は、戦争への道につながる、というのが歴史の教訓です。
安倍前政権以降、日本学術会議の会員人事への政府の介入や、政府に批判的な報道や表現への圧力が続きます。
今年は戦後七十五年ですが、戦後でなく、むしろ戦前ではないかと思わせる動きです。
戦後制定された憲法の平和主義は、国内外に多大な犠牲を強いた戦争の反省に基づくものです。
戦争の惨禍を二度と繰り返さない。
その決意の重みを、いつにも増して感じる開戦の日です。
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開戦の日に考える 鶴彬獄死の末にある戦
東京新聞 2020年12月8日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/73025
■「報道の自由」日本72位!! どうして?
朝日学情ナビ 2016年04月21日
https://asahi.gakujo.ne.jp/common_sense/morning_paper/detail/id=1737
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世界の「報道の自由度ランキング」で日本は順位を下げて、180カ国・地域のなかで72位に沈みました。
先進国ではイタリアに次いで低い順位です。
憲法で「言論・表現の自由」が保障されているはずなのに、どうしてこんな順位なんでしょう?
施行から1年が過ぎた特定秘密保護法の影響のほか、政治権力からの圧力やメディア側の自主規制や忖度(そんたく)があるのではないかと指摘されています。(編集長・木之本敬介)
今日取り上げるのは、総合面(7面)の「『報道の自由』72位/日本に海外から懸念も」です。
記事の内容は――国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)が20日に発表したランキングで、日本は前年より順位が11下がって72位だった。
日本は2010年には11位だったが、年々順位を下げ、14年は59位、15年は61位だった。
今年の報告書では、特定秘密保護法について「定義があいまいな『国家機密』が厳しい法律で守られている」とし、記者が処罰の対象になりかねないという恐れが「メディアをまひさせている」(アジア太平洋地区の担当者)と指摘した。
その結果、調査報道に二の足を踏むことや、記事の一部削除や掲載・放送を見合わせる自主規制に「多くのメディアが陥っている」と報告書は断じ、「とりわけ(安倍晋三)首相に対して」自主規制が働いているとした。
日本の報道をめぐってはほかにも、「表現の自由」に関する国連特別報告者の米大学教授が来日し「報道の独立性が重大な脅威に直面している」と指摘。
米ワシントン・ポストが日本政府のメディアへの圧力に懸念を表明、英誌エコノミストは「報道番組から政権批判が消される」と題した記事で日本のニュース番組のキャスターが相次いで交代したことを紹介した。(東京本社発行の朝日新聞朝刊最終版から)
(中略)
それにしても、日本の「72位」という順位には驚いた人が多いのではないでしょうか。
だって、日本はお隣の北朝鮮や中国のような言論統制のある国とは異なり、憲法21条で言論・表現の自由が保障されています。
報道も自由だと思っていますよね。
それなのに、なぜこんなに順位が低いのか。
ランキングの報告書が指摘するのが特定秘密保護法です。
この法律は、安全保障に関する重要な情報を指定し、それを外部に漏らした公務員などに最高で懲役10年の罰則を科す法律で、2014年12月に施行されました。
特定秘密を漏らすように「不当な方法」でそそのかした記者や市民も懲役5年以下の罰則を受けます。
「国境なき記者団」はかねて、取材の方法しだいで記者も処罰されかねない同法に疑問を呈してきました。
国連特別報告者のデービッド・ケイ氏も、同法について「原発や災害対応、安全保障など国民の関心が高い問題の政府情報が規制される可能性があり、内部告発者の保護体制も弱い」と懸念を示しています。
さらに、海外でも報じられている最近のテレビ報道と政治権力をめぐる話題を整理します。
【2014年12月】安倍首相は衆院選前に出演したTBSの番組で、アベノミクスの効果についての街頭インタビューを聞き、賛成の声が全然反映されていないとして「おかしいじゃないか」とクレームをつけた。自民党は選挙報道の公平中立を求める文書を各テレビ局に送った
【2015年4月】自民党の調査会が番組内容をめぐりNHKとテレビ朝日の幹部を事情聴取(同年4月21日今日の朝刊「テレ朝、NHKを自民なぜ聴取?放送法を考えよう」参照)
【2015年6月】自民党の勉強会で国会議員が「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番」と発言
【2016年2月】放送を所管する高市早苗総務相が国会答弁で「政治的公平」などを定めた放送法4条に違反した場合、放送局に電波停止を命じる可能性があるとの考えを示した(2月9日の今日の朝刊「総務相がテレビ電波停止に言及…『不偏不党』『公平』ってなんだ?」参照)
【2016年3月】NHK「クローズアップ現代」の国谷裕子、テレビ朝日「報道ステーション」の古舘伊知郎、TBS「ニュース23」の岸井成格(しげただ)の3氏が番組を降板した。いずれも、時に権力に切り込む発言をするキャスターだったため、何らかの圧力やテレビ局側の忖度(そんたく)があったのではないかとの見方も
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「報道の自由」日本72位!! どうして?
朝日学情ナビ 2016年04月21日
https://asahi.gakujo.ne.jp/common_sense/morning_paper/detail/id=1737
■いま、桐生悠々に学ぶべきこと『そして、メディアは日本を戦争に導いた』 (半藤一利・保阪正康 著)
文春文庫 2016.03.16 保阪正康
https://books.bunshun.jp/articles/-/3456
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ジャーナリスト魂、あるいはジャーナリスト根性などという語が、ときにジャーナリスト自身から聞かされる。
権力に阿(おもね)ることなく、権力からの圧力にも屈せず、「報道の自由」を守ることに身を挺する、との意味が持たされているのであろう。
言論に制限が加えられる時代がこないよう、我々は自覚していたいとの意味もあるのだろう。
こういうジャーナリスト(大体は新聞記者が多いのだが)とときに会話を交わしながら、私はこの意気込みを諒としつつ、そしてこういう自戒を意識していることに敬意を表する一方で、言論の自由を守ることがそれほど簡単でないことを私たちは歴史から学ばなければならないとも思う。
もっともわかりやすい例えを持ちだすが、昭和一〇年代に真のジャーナリストは存在しえたのだろうか、との設問を用意してみればいい。
昭和一一年の二・二六事件以後、日本社会はより偏狭な民族主義に染まった国家へと変質していく。
言論そのものが一定の枠内にとどまることを要求され、とくに昭和一二年七月の日中戦争以後は「聖戦完遂」が国策の共通語となり、新聞、雑誌はその方向での編集しか認められなくなった。
加えて、本書でも半藤一利氏が指摘しているように、新聞は競って中国戦線に特派員を送り、戦勝の気運を盛り上げ、我が郷土部隊は「無敵」の部隊だなどと国民を煽(あお)る記事を掲載し続けた。
実際にそのような記事によって、新聞の売り上げは大幅に伸びたのである。
こういう時代にあって、ジャーナリストの役割はどのようなものなのだろうか。
大まかに言えば、記者個人がその良心に従って記事を書く時代たりえただろうか。
自分は戦争そのものに反対である、日中戦争は日本の理不尽な要求から出発しているのであるから即時停戦しなければならない、との考えを持っている記者が、そのような思いで自由に記事を書けただろうか。
あるいは組織体に属している記者ではなく、自由に発言、執筆のできる立場の評論家や作家が、ジャーナリストの目で自らの所信を自由に書くことができただろうか。
答えはいずれも「否」である。国家はそんなに甘くはない。
彼らに自由に執筆の場など与えられるわけがない。
こうした状況を分析していくとわかるが、ジャーナリスト個人がどれほど「表現の自由」を守るのだと叫んだとしても、まずその職が保障されるとは限らない。
自らの信念を曲げなければ、その自由を失った社会では生きていけないのだ。
だからジャーナリストは、自分の考えなど持つな、自分の考えは国家が要求している枠組みにあてはめて生きていけ、と的外れな教訓を説く論者も出てくる。
昭和一〇年代の年表を見ていけばわかることだが、日本社会はそれこそあっという間にファシズム体制に傾き、操作された言論によって世論が一元化され、皇紀二六〇〇年を祝い、敵国米英撃滅を声高に叫び、そして戦時体制に入っていった。
その上で三年八カ月もの間、アメリカを中心とする連合国と戦い、軍事主導体制は崩壊していったのである。
この間、ジャーナリストは国家の宣伝要員であった。
ジャーナリストなどと名乗るのはおこがましく、国家の戦争政策を進める重要な情報マンだったのである。
このことを私たちは正確に押さえておかなければならないと思う。
昭和一〇年代にジャーナリストたりえたのは、日本社会でも桐生悠々(きりゅうゆうゆう)をはじめとして石橋湛山(たんざん)などほんの少数ではなかったか、と私は考えている。
本書の中ではその趣旨で、半藤氏と何度か桐生のことにはふれてきた。
桐生の時代を見つめる目は、戦後になって図らずも諒解されて広く喧伝されるようになったので、よく知られるようになったのだが、昭和一〇年代には、『信濃毎日新聞』の論説委員の職(軍部批判が多く、在郷[ざいごう]軍人会などに終始嫌がらせを受けた)を離れ、名古屋に住み、個人誌『他山の石』を刊行して細々と生活を維持していた。
特高(とっこう)警察は、その桐生の執筆活動に常に弾圧を続け、少部数の『他山の石』さえもしばしば発禁(はっきん)処分にして、ジャーナリストとしての活動を封じた。
桐生はどれほどの弾圧(それは経済的に苦しいだけでなく、桐生の子弟たちもまたそれぞれの教育の場で弾圧を受けることもあったようだが)を受けようとも屈しなかった。
その意味では真のジャーナリストだったのである。
私はあえて、「この期間の日本に真のジャーナリストはごく少数しかいなかった」と分析するのだが、その折に、桐生悠々の存在を忘れてはいけないと思う。
『他山の石』は、わずか四〇〇部程度の少部数のクオリティ雑誌であった。
それに対して国家がどれほどの暴虐を加えて、この雑誌を弾圧したかを思えば、国家は、「社会的に筋の通った論」には異様なほど脅(おび)えることを知っておく必要もある。
桐生悠々は思想的に反軍部の論を主張したのではない。
彼の立脚する立場は、明治天皇の発した「五箇条の御誓文」である。
ここに大日本帝国の基本的理念が盛られているのであり、昭和初年代からの軍部は、この精神を踏みにじり、日本をとんでもない方向に導こうとしていると主張した。
『他山の石』の表紙の裏面には、五箇条の御誓文を必ず掲げた。
「明治天皇は自由主義、民主主義者であらせられたのだ。五箇条の御誓文を拝読するとき、この思想はいづれの条項にも、脈々と躍動してゐる」と書いて、軍部、とくに昭和陸軍を批判したのである。
桐生は昭和一五年頃から、体調が悪化していることに気づき、喉頭がんにより余命がいくばくもないことを知った。
昭和一六年九月に『他山の石』の廃刊を決め、その最終号に「『他山の石』廃刊の辞」を書いている。
わずか四〇〇字余の「辞」であったが、そこには次のような一節があった(本文でもその一部は紹介している)。
「超民族的超国家的に全人類の康福を祈願して筆を執り孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつつ今日に到候(いたりそうろう)が最近に及び政府当局は本誌を国家総動員法の邪魔物として取扱ひ相成(あいな)るべくは本誌の廃刊を希望致居(いたしおり)候」
そして次のように続けてしめくくっている。
「時偶(ときたま)小生の痼疾(こしつ)咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能(あた)はざるやうに相成やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故(ゆえ)小生は寧(むし)ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候(いたしおりそうろう)も唯(ただ)小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座(ござ)候」
あえて私が、昭和一〇年代のジャーナリストとして桐生悠々にこだわり続けるのは、その信念の強固なこと、その信念を崩さない一生を貫くこと、そこにこそ価値を見いだすからである。
桐生はただ一人で闘ったのだが、こういう人物こそ、記者魂という表現で語り続けるべきだと、私は考えているのである。
本書は、半藤一利氏と心おきなくジャーナリスト論を交わしたという意味では、私にとって心中の満足度は高い。
言うまでもなく半藤氏は、戦後の雑誌の渦中にあって、言論の自由がどのような形で守られ、どのようにして真のジャーナリストが存立しうるのかを多くの例証を引きながら語っている。
私自身も戦後社会のジャーナリズムの一角で、身を立ててきたが、そこではジャーナリストにはどのような気構えが必要とされるかを私なりの目で見つめてきた。
そういう思いをこの対談では語らせてもらったのだが、半藤氏もまた現在の若きジャーナリストたちに幾分の不満と、また大いなる期待をもっていることを知ることができた。
その点で二人は少々愚痴っぽくなるところもあるのだが、共通の認識を持っていることをつけ加えておきたい。
その認識とは、ジャーナリストとは一個人がジャーナリストとしての矜持(きょうじ)を持ったり、誇りを持つだけでは不十分だということになる。
むろんこのことは基本的な姿勢ともいえるのだが、それよりもまず現在の自分たちの身を置いている社会が、市民的権利を保障する空間であるか否かを常に感性に富んだ目で見ていなければいけないということだ。
市民的権利になんらかの妨害工作を加えるような社会では、いずれ必ず歪みの伴った言論弾圧の動きがでてくる、と私は断言してはばからない。
この点は、半藤氏もまた同様であると私は考えている。
市民的権利に制限を加えるよう主張する政治家や政治的勢力は、必ず偏狭な国家主義、一面的な民族主義、口先だけの愛国主義を唱え続ける。
そういう政治的目標を確立するには、なによりも市民的権利に制限を加えることのみがもっとも手短かに行われる手法だからである。
いまはそういう時代ではないか。
改めて感覚をとぎすます必要があるのではないか。
私はいまこそジャーナリストは、国家の宣伝要員に堕したあの時代の内実を検証した上で、自らの立ち場を確認すべきではないかと思う。
平成二五(二〇一三)年 九月
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いま、桐生悠々に学ぶべきこと『そして、メディアは日本を戦争に導いた』 (半藤一利・保阪正康 著)
文春文庫 2016.03.16 保阪正康
https://books.bunshun.jp/articles/-/3456
■教育、言論、テロの順で社会はおかしくなる――昭和史の教訓を今こそ
『そして、メディアは日本を戦争に導いた』半藤 一利 保阪 正康
文春文庫 2021.07.28
https://books.bunshun.jp/articles/-/6431
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・昭和一桁に似てきている現代日本
【半藤】 私が昭和一桁(けた)の歴史から学んでほしいなと思うのは、まず教育の国家統制が始まるとまずいということです。
それから、情報の統制が始まるとこれがいちばんよくない。
そうすると、あらゆる面で言論が不自由になってくるわけで、ますますよくない。
さらに、テロ、こうした順で社会がおかしくなってくることなんです。
幸いにして、テロはいまの日本社会にはあまりありませんがね。
とにかく、こうした教訓は昭和一桁の歴史から学ぶことができるんですよ。
それでは、いまの日本はどうかと言うと、教育基本法をつくって教育を改変しようという動きがあります。
修身(しゅうしん)の授業を復活させようという動きもある。
権力者というのは常に、教育、言論というものを統制したがるという傾向があり、いまの日本には怪しい兆候が出ているなと思うんですよ。
それから、情報の統制ということに関して言うと、通信傍受法とか個人情報保護法とか、言論の自由を縛るような法律が出てきています。
個人情報保護法などは、一見、言論を縛るものではないように思われるかもしれませんが、現場のジャーナリストはこの法律によってどれだけ困っているかわからない。
「個人情報保護法があるから教えられません」と、取材対象者の所属している会社や役所に言われてしまう。
取材対象が公的な立場の人間であっても、法律を盾にして取材拒否されるんですよ。
明らかに、言論の自由を狭めるのに使われているんですね。
こういう形で、国家統制が始まる、言論が不自由になってくるというのは、非常に良くないですね。
それに一億総背番号制なんていうのもどうですか。
これを拡大すれば、思想言論の監視なんかに役立つんじゃありませんか。
幸いなことに、言論弾圧というのはまだ起こってはいません。
けれど、非常に気になる兆候はあるんです。
法的には共謀罪の成立が図られていることです。
この共謀罪というのは、使いようによってはかなりの言論弾圧を可能にするんですね。
こう見てくると、いまの日本は、何とはなしに昭和一桁の時代と同じ流れをくみつつあるなと思わないでもないんですよ。
それと忘れちゃいけないことがありました。
いまや安倍政権が秋につくろうとしている「特定秘密保護法」(二〇一三年一二月に成立、公布。一四年一二月に施行)なるものがあります。
これが成立すると、国家機密を暴露したり、報道したりすると厳罰に処せられる。
そもそも国や政権が何のために情報を隠そうとするのかといえば、その大半は、私たちの知る権利や生命財産を危うくするものばかりなんですよ。
昭和史の事実がそれを証明しています。
報道はそんなことをさせないために頑張らなければいけないですよ。
この法律ができると頑張れなくなってしまう。大問題なんですがね。
それに自民党の憲法草案には、やたらと「公益及び公の秩序」なんて強調されている文案がある。
「個人の尊重」の個人が「人」と変えられたり拡大解釈できそうなところが山ほどある。
戦前の日本に逆戻りしたいのかな、と思ったりしますよ。
テロはいまのところないと言いたいところですが、全くないとも言い切れない。
例えば、加藤紘一の家が狙われたり、朝日新聞や日経新聞が攻撃されたりという事実もある。
いや、ネット上のテロ(?)ははじまっている。
こうした状況を見ると、これからのジャーナリズムに携わる人は本気になって言論の自由を守ることを考えなくてはいけないと思うんです。
まず、政治権力に屈してはいけない。
歴史を振り返ればわかるように、権力側はきっと懐柔しようとします。
それを承知しておいて、決して屈従しないことが大切です。
それでなくとも、言論が不自由になりつつあるんですから、こちらから屈従するのは大間違いなんです。
ジャーナリズムは本気になって、言論の自由を考えなければいけない。
これが昭和一桁の歴史から学ぶべき、最大の教訓だと思うんですよね。
・現代のナショナリズムの扇動
【半藤】 それとまた、いまの日本は民衆レベルでもナショナリズムつまり国粋主義の高揚といいますか、そうした動きがあって、非常に危険なことだと思うんですよ。
上も下も、みんなナショナリズムでわっしょいわっしょいとやり始めると、国家というものの動きを非常に窮屈にする、ますます内に閉じこもらせるばかりなんですね。
これはジャーナリズムだけでなく、国民がみんなで相当注意していかなければならない。
もし、言論がこれに対して、また昭和初期のように黙ってしまうと、言論の自縄自縛になる。
──私は四〇代の後半なんですが、私たちの世代にはナショナリズムに対する免疫がないんです。若い頃ならともかく、結構いい年になってからナショナリズムにかぶれると、どっぷりとはまりやすいようなんですね。
【保阪】 思想にはまり込んで疑いをもたないのは、いちばん楽なんですよ。
全てが一元的に割り切れるから。
【半藤】 そう、そっちのほうがあまり考えないで済むから楽なんだね。
でも思考停止がいちばんいけない。
昭和八年の国連脱退がいい例ですよ。
少々の外圧があって被害者意識が強まって、みんなナショナリズムにはまり込んだ。
でも、栄光ある孤立なんて、そういうものはありません。
外圧が強まって被害者意識が強まると、みんなナショナリズムに走るけれど、これは日本が陥りつつある危険だと自覚しなきゃいけない。
これに対してジャーナリズムは、言論の自由を発揮して、できるだけ危険な思い込みを抑制するという形にしないといかんですよ。
──最近の出版物の傾向では、“自虐史観”から“居直り史観”へと大きく方向転換している感じがします。売れ行きを見ると、居直り史観のほうがいいようですし。
【半藤】 また始まったな。
売れるからって、ろくに考えもしないで無責任に出版して、昭和一桁の時代を再現するつもりかね。
というようなことを、日本の昭和史をジャーナリズムの観点から考えてくると、しみじみと思うわけなんです。
ただね、ナショナリズムを言論で抑制するのはものすごく困難なことで、いまはまだテロが始まっていないから頑張ることもできます。
でも、テロが始まってしまうと、言論は途端にしぼんでしまう危うさがある。
だから、いまが肝心なんです。
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教育、言論、テロの順で社会はおかしくなる――昭和史の教訓を今こそ
『そして、メディアは日本を戦争に導いた』半藤 一利 保阪 正康
文春文庫 2021.07.28
https://books.bunshun.jp/articles/-/6431
■そして、メディアは日本を戦争に導いた
週刊朝日 2013年12月13日号 斎藤美奈
https://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2013120400050.html
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希代の悪法・特定秘密保護法案が今国会で成立しようとしている。
どんだけ歴史に学ばない国なんだろう。
半藤一利+保阪正康『そして、メディアは日本を戦争に導いた』はこのタイミングでこそ読んでおきたい本。
昭和史の碩学2人が戦争に突入するまでのメディアの状況を語り合った、戦慄を誘う対談である。
明治の初期には反政府的だった新聞は、日露戦争を境に体制に擦り寄っていく。
〈日露戦争で部数が伸びたことは、新聞各社の潜在的な記憶として残ったんですね〉(保阪)。
昭和6年の満州事変で新聞が一朝にして戦争協力の論調に変わったのも〈商売に走ったんですよ〉(半藤)。
主たるテーマは、戦前の日本がいかなる過程を経てモノ言えぬ国に変わっていったかだ。
昭和7年の5・15事件で「義挙」の名の下にテロを容認する雰囲気が醸成され、昭和8年には新聞紙法が、9年には出版法が強化されて検閲に拍車がかかる。
国定教科書が改訂され〈ススメ ススメ ヘイタイ ススメ〉という文言が登場したのも昭和8年。
教育と情報の国家統制が進み、特高警察の設置によって言論が封殺され、一方では暴力が横行する。
ジャーナリズムはそれに〈全く乗っかっちゃった〉(半藤)。
〈尖兵(せんぺい)になったという側面さえありますよね〉(保阪)。
ゾッとするのは昭和初期と現在との驚くべき類似である。
教科書検定制度の見直し、内閣法制局やNHKへの人事介入、昭和15年の皇紀2600年祭にも似た主権回復の日の式典。
幻に終わった東京五輪。
歴史を顧みれば、ことは特定秘密保護法案による情報統制に終わらないように思えてくる。
〈対米戦争を始めてしまったとき、軍の指導者には知的な訓練のできている人はいなかった〉(保阪)。
軍人や官僚だけでなく〈日本人全体がバカだったと思うんです。ジャーナリストもその中に入ります〉(半藤)という言葉を私たちは噛みしめるべきだろう。
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そして、メディアは日本を戦争に導いた
週刊朝日 2013年12月13日号 斎藤美奈
https://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2013120400050.html
■『そして、メディアは日本を戦争に導いた』
https://www.niigatashi-ishikai.or.jp/newsletter/my_library/201803191232.html
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読み止して本棚に眠っていた、この本を急遽要約いたしました。
この本の中でも述べられており、ほかでもよく見聞きすることであるが、ここ数年の日本の状況は戦前の感じに似てきているといわれる。
戦後民主主義が絶対正しいとはいわれないが、それ以前の時代に比べればまだましなほうでなかったか、ましなものがよりましな方向へ向かうのはいいが、逆に悪い方向へ向かっている。
より大日本帝国回帰型に変わるのではないかという危惧を感じる。
戦争を知らない世代の人たちが国のトップに立つと戦争に走ってしまう。
日中戦争、太平洋戦争突入時のリーダーは日露戦争の経験者ではなく、現在のリーダーも太平洋戦争の悲惨さや戦中戦後の苦しみを知らない人たちになっている。
この本は、こういった状況のなかで、昭和史に多くの著書を持つ保阪正康、半藤一利両氏がジャーナリズムの歴史、その反省と今後のありかた、本来あるべき姿と使命、国民(民衆)との関わりなどについて語りあったものをまとめたものである。
昭和11年の2.26事件以降、日本社会は偏狭な民族主義に染まった国家へと変質していく。
昭和12年7月、日中戦争以降「聖戦完遂」が国家共通語となり、新聞、雑誌はその方向での編集しか認められなくなった。
加えて新聞は競って戦勝の気分を盛り上げ国民を煽る記事を掲載し続けた。
新聞は売上をのばし、軍と一体化し、この間ジャーナリズムは国家の宣伝要員であった。
昭和12年9月、内閣情報部が新設。
12月、軍も大本営内に報道部を作る。
昭和16年1月、言論を指導する新聞紙等掲載制限令。
昭和18年、日本出版会という軍の御用組織が作られ出版社への用紙割り当ての決定権を握った。
昭和改元~昭和20年8月の昭和史20年間において、言論と出版の自由がいかにして強引に奪われてきたことか。
それを知れば、権力を掌握するものが、その権力を安泰にし、強固にするために拡大解釈がいくらでも可能な条項を織り込んで法をつくり、それによって自由を巧みに奪ってきた。
権力者はいつの時代でも同じ手口を使うものなのである。
教育の国家統制にはじまり、あらゆる面で言論が不自由となり、さらにテロの頻発。
こういった順で社会がおかしくなってくる。
今日の日本はどうか、教育基本法を作って教育を改革、修身教育の復活。情報の統制に関しては個人情報保護法、一億背番号制、共謀罪の成立など不安材料がでてきている。
ジャーナリズムは本気になって言論の自由を考えなければならない。
国家が個人を弾圧しようとしたら断固として拒否しなければならない。
このための役目を負託されているのがジャーナリズムである。
負託されている側はその責任を自覚しなければならない。
市民の側にもジャーナリズムにその権利を負託していることに対する責任と自覚が必要である。
ジャーナリズムは今の社会が市民的権利を保障する空間であるか否かを常に感性に富んだ目で見ていなければならない。
市民的権利に制限を加えるよう主張する政治家や政治勢力は必ず偏狭な国家主義、一面的な民族主義、口先だけの愛国主義をとなえる。
いずれ必ず言論弾圧の動きもでてくる。
ジャーナリストは一個人としてジャーナリストとしての衿持を正す、誇りを持つだけでは不十分である。
歴史的事実と照らし強制的な法の縛り、情報発信の一元化や表現の干渉といった兆候がみえたら警戒しなければならない。
国家権力からの圧迫に対しどのような抵抗の態度をとるべきか、歴史的事実を正確に読み解く目を養い、正確な情報をわかりやすく、国民がだれでも分かるように報道することである。
これからは国家権力の圧迫に対して思い切って抵抗するか、それとも亡命を選ぶかという厳しい選択を迫られることがあるであろう。
その時こそ、ジャーナリストは国家の宣伝要員に堕したあの時代の史実を検証した上で自らの立場を明確にすべきであろう。
最も大切なものは言論の自由であると述べられている。
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『そして、メディアは日本を戦争に導いた』
新潟市医師会 小林晋一(新潟市医師会報より)
https://www.niigatashi-ishikai.or.jp/newsletter/my_library/201803191232.html
■権力が悪用する「言論の自由」
長周新聞 2015年2月11日
https://www.chosyu-journal.jp/kokusai/3650
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・第2次大戦の経験 最も不自由強いた戦争
「言論の自由」を犯すのはいつも反動的な権力者の側でとりわけひどくなるのが戦争である。
フランスや欧米各国を見るまでもなく、日本社会の経験を振り返っても同じことがいえる。
かつての戦争で、絶対主義天皇制は治安維持法などによって言論を封殺し、国民を戦火の渦に投げ込んだ。
手紙にいたるまで軍の監視の目が行き届き、寄り合いを持つのにも警察の目が光った。
出版物は検閲され、天皇制に楯突こうものなら憲兵隊に捕えられて牢獄に放り込まれた。
そして有無をいわさずに国民を戦争に引きずり込んだ挙げ句、320万人もの国民を無惨に殺した。
メディアは「言論の自由」どころか大本営発表をくり返し、国民世論を欺く道具となった。
あの戦争から70年が経過し、フランスでシャルリー・エブド事件が騒がれるなかで、権力者みずからの「言論の自由」は確保して、中東で好き勝手を主張してテロの標的に立候補したのが安倍晋三だった。
集団的自衛権の行使容認や秘密保護法など、戦争体制を準備するなかで、国民の自由について制限することばかり考えているのが安倍政府である。
自民党の改憲草案になると、基本的人権を否定し、表現や結社の自由についても「公共の秩序を乱す」なら許さない、すなわち権力者の匙加減次第であると主張してはばからない。
さらに、非常事態宣言を発すればいつでも時の政府の好き勝手に法律を変更できるというようなデタラメを真顔で検討している。
そして「言論の自由」を主張しなければならないメディアになると、NHKは早くから安倍ブレーンの籾井体制へと移行し、「時の政府が右といっているのを左というわけにはいかない」と主張してはばからない。
人質事件を経た最近でも「900人から回答を得た結果、安倍政府の支持率が上昇した」などと恥ずかしげもなく大本営発表をやるようになった。
新聞メディアや他のテレビ局も似たようなもので、総選挙では投票日前から「自民党圧勝」を連日のように書き立てて世論を幻滅させ、低投票率勝ち抜けを狙っていた自民党に奉仕した。
「勝った!」「勝った!」といって嘘八百を並べたてた、かつての大本営顔負けのデマ報道となった。
新聞やメディアは“社会の木鐸(ぼくたく)”といわれ、政府や権力機関の監視を社会的責務としてきた。
国民の関心がある問題について真実を追及し、広く社会に警鐘を乱打したり、よりよい社会を実現するために権力と対峙し、その不正を暴いたりと、社会正義を貫くことを表向きの建前にしてきた。
ところが、今や暴力によって「言論の自由」を奪われるまでもなく、みずから自主検閲をやり、メディア幹部になると首相と会食をするのが日課という番犬状態に成り下がっている。
「言論の自由」を投げ出すだけでなく、支配勢力の代弁機関となって大衆の死活の問題をそらしたり、いつもウソやずるい黙殺をくり返して、真実を泥沼の底に追いやっていく姿は誰もが見てきた。
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権力が悪用する「言論の自由」 仏週刊誌襲撃事件で顕在化 イスラム弾圧で戦争動員
長周新聞 2015年2月11日
https://www.chosyu-journal.jp/kokusai/3650
■安倍がつき菅がこねし「戦争餅」を何も考えずに食うがごとき態度
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/317631
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この十年間は、日本がいつでも戦争できるように法整備を整えてくる期間だった。
秘密保護法(2013年)、安保法制(2015年)、共謀罪(2017年)と、民主主義を脅かす法律を次から次へと、強行採決で決めてきた安倍政権時代は、そのためにあった時代だった。
短かった菅政権も、安倍氏の申し送り事項だったらしい、学術会議の任命拒否をして、知や学問を時の政権に従わせる方針をあきらかにした。
戦争の時代に、必ず政府が知や言論を統制するように。
被爆地広島出身で宏池会に所属する岸田首相は、その出自が与えるイメージを大きく裏切って、安倍がつき菅がこねし戦争餅を、何も考えずに食うがごとき態度で、安保三文書を「閣議決定」した。
ロシアのウクライナ侵攻を奇貨として、「台湾有事」を煽ることのできるいまなら、「巨額の防衛費」も「敵基地攻撃能力」も、市民や野党は反対できないだろうと考える人たちの、「黙って進めるだけで、あなたの権力は安泰ですよ」と耳元で囁く声に、深く考えずに身を任せることにしたのだろう。
人の意見に反対したり、リーダーは何をすべきなのか考えたりするのは、なかなかに、めんどくさいことなんだろうから。
しかし、少しでも考えれば、「敵基地攻撃能力」を持ったり、トマホークを買ったりするのではなくて、「台湾有事」を回避するために必死で努力すべきだという考えしか浮かばないはずだ。
米中が台湾を巡って対立し、戦争に発展するという段階になれば、米軍基地のある日本は攻撃対象になり、沿岸部にずらりと並んだ原子力発電所は、身の内に抱え込んだ地雷以上に危険な存在になる。
戦争の影響で物流が滞れば、食糧の六割以上を輸入に頼る日本は、たちまち食糧危機に陥る。
早晩、餓死者が出るだろう。
そんな「有事」が起こってもらっては困る。
だから、起こらないように、起こさないように、外交努力を重ねるしかない。
戦争ではなく平和を希求する想像力が必要だ。
・平和を構築するための外交努力
アメリカが日本に軍事的貢献を要求してくるようになった背景には、アメリカの国力が落ち、かつてのような「世界の警察」役をやるのはもう嫌だ、というのがあるという。
日本ももっと負担してくれよ、というわけだ。
日本は、アメリカにヘソを曲げられたら国家存亡の危機とばかりに「なんでもします。金も人も出します。敵基地攻撃しろって言われたらやります。だから、見捨てないで」と、足に縋りついている。
でも、恋愛でもなんでも、縋りついて「見捨てないで」と哀願すれば見捨てられないわけではない。
運よく見捨てられなかったとしても、大体において、都合のいい存在にしかならない。
都合のいい存在に甘んじているうちに、気がついたら国が焦土と化していた、なんてことになるわけにはいかない。
米中に自制を促し、東アジアの国々と連携して平和を構築するための外交努力を今すぐ始める以外に、日本が生き残る道はない。
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安倍がつき菅がこねし「戦争餅」を何も考えずに食うがごとき態度
日刊ゲンダイ:2023/01/24 中島京子
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/317631
■報道自由度、日本は4つ下げ71位に 国境なき記者団
日本経済新聞 2022年5月3日
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF031WY0T00C22A5000000/
■報道自由度、日本は71位 国境なき記者団、四つ低下
共同通信 2022/05/03
https://nordot.app/894125755834286080
出版社:ワック (2014/10/24)
■日中戦争を仕掛けるアメリカ!~アメリカが日本と中国を戦争させたい理由~
Journalist blog 2015-09-18
https://ameblo.jp/survey007/entry-12074455443.html
~アメリカが日本と中国を戦争させたい理由~
真崎良幸
https://www.youtube.com/watch?v=2OvNBdmKl0o