https://www.youtube.com/watch?v=65krBx_Bblg
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1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機123便墜落事件。
「NHKスペシャル 日航ジャンボ機事故 空白の16時間 ~“墜落の夜”30年目の真実~」(2015年8月1日放送)
米空軍の輸送機U130パイロット、マイケル・アントヌッチ中尉が重大な証言を公表した。
「当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。」
米軍輸送機は午後7時20分に墜落現場を確認している。
そして、この輸送機が米軍の救援ヘリを視認したのが午後8時50分。
ヘリは地上に救援隊員を降下させようとしたが、横田基地から「直ちに基地へ帰還せよ」との命令が下された。
救援ヘリは救助続行を希望したが、横田基地は機関命令を下した。
米軍輸送機は午後9時20分に日本の自衛隊機が現地に到着したのを確認して帰還した。
実際に救援活動が始まったのは翌日13日の午前7時以降である。
この間に一体何があったのか。
そして、なぜ、早期の救援活動が行われなかったのか。
群馬県警察本部発行の昭和六十年十月号『上毛警友』冊子が日航機墜落事故特集号となっており、その122ページに「日航機大惨事災害派遣に参加して」と題する自衛隊第十二偵察隊一等陸曹M・K氏の手記が掲載されている。
このなかに次の記述がある。
「八月十二日私は、実家に不幸があり吾妻郡東村に帰省していた。午後六時四十分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム二機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした。「何か事故でもあったのだろうか」と兄と話をした。午後七時二十分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った。」
つまり、この日の夕刻午後6時四十分頃に群馬県上空を自衛隊のファントム2機が飛行していたのである。
同時に青山氏はもうひとつの重要な目撃証言を掲載している。
8月12日午後6時30分頃に、静岡県藤枝市の上空を日航ジャンボ機が傾きながら飛行し、その約5分後にファントム2機が日航機の後を追うように北の方向に飛び去ったのを目撃した人物が紹介されている。
日航ジャンボ機が尾翼を失い、この日航ジャンボ機を追尾するように自衛隊ファントム2機が追尾するという事実が存在した可能性が極めて高いのである。
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日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)
https://www.youtube.com/watch?v=65krBx_Bblg
■今から50年前、全米を制したのは日本の音楽だった。
「坂本九「上を向いて歩こう」は、英語タイトル「SUKIYAKI」として、1963年6月15日に、Hot100で1位を獲得、その後3週間首位を守り続けた」
https://www.billboard-japan.com/special/detail/607
■Windowsより凄かった日本産OSの実力!世界標準になり得た日本産OSトロン!誰が何のために潰したのか!
https://www.youtube.com/watch?v=M2t6SUwEOnM
■日本が開発した「幻のOS」に世界が震えた!
https://www.youtube.com/watch?v=zWlrWJ9ODZk
「1989年4月、日本政府と日米貿易摩擦交渉で対峙していた米通商代表部(USTR)が非関税障壁の1つとしてTRONを取り上げた」
■国産OS「TRON」が日米の貿易問題になった1989年(日経コンピュータ)
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00215/060300034/
「日航機墜落のあと、日本は以前にもまして対米全面服従になった。事故の翌月には「プラザ合意」が結ばれ、協調介入によって極端な円高がもたらされ、日本は円高不況に突入。日本の経済政策はすべてアメリカの思惑通りに行われるようになった」