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日銀金融緩和で刷られた円の行き先が日本企業でも日本国民でもないカラクリ(Dr.苫米地 2016年9月15日TOKYO MXバラいろダンディ) https://www.youtube.com/watch?v=tvzNqO6qsGI

■プラザ合意から33年、1985年は何だったのか ~失われた20年から抜け出せていない原因は~ 東洋経済 2018/02/27

 


プラザ合意から33年、1985年は何だったのか

~失われた20年から抜け出せていない原因は~

東洋経済 2018/02/27

https://toyokeizai.net/articles/-/209556


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・「失われた20年」の原点


1970年代から80年代にかけて、日本経済は活力にあふれ、アメリカを猛然と追い上げていた。

アメリカも、このままではやられてしまうと、日本経済を警戒していた。


当時のアメリカにとって、脅威だったのは、中国ではなく、日本だった。

79年には、アメリカの社会学エズラ・ヴォーゲル氏が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出し、日本では70万部を超えるベストセラーとなった。


この本は日本の経済成長の原因を探ったもので、日本人の学習意欲、読書意欲を高く評価している。

なによりもこの本は、日本人に「もしかすると、日本はすごいのかもしれない」と自信を持たせた。


最近になって中国でも中国語訳が出て注目されており、本のタイトルはまさしく直訳の『日本第一』という。国と国の比較は難しいものだが、ひとつの尺度として、GDP国内総生産)の数字を見てみよう。

85年のGDP(当時はGNP=国民総生産)は、世界の首位がアメリカの4兆3400億ドルで、2位が日本の1兆3800億ドルだった。


この年の世界のGDPを総合計すると12兆4000億ドルだったから、計算すると、アメリカは世界のGDPの35%を占めている。

まさしく超大国だ。


しかし、2位の日本も12%を占め、アメリカに迫っていることが分かる。

太平洋戦争が終わったのが1945年だから、そのわずか40年後には、日本は、アメリカを追い上げる国として復活した。


アメリカには及ばないにせよ、このころ、日本国内でも、「日本は経済大国」という言い方をするようになった。

3位は、当時の西ドイツで6500億ドル(世界の5%)だった。


日本のちょうど半分の規模であり、日本経済がいかに大きかったかを示している。

4位はフランス、5位はイギリス、6位はイタリア、7位はカナダだった。


この7か国が、主要国首脳会議(G7サミット)のメンバーになるのは、ごく自然なことだった。

ちなみに、中国は、ようやく8位に入っているが、GDPは3100億ドル、世界の2%に過ぎない。


やがて日本を抜き、アメリカに次ぐ経済規模になってG2を自称するようになるとは、このころ、だれも思わなかった。

当時、G2という言い方はなかったが、もしG2という言葉があるとすれば、それは、アメリカと日本のことだった。


その日本は、80年代末にバブル経済の絶頂期を迎えたものの、90年に入るとバブルが崩壊し、「失われた10年」の長期不況に入った。

失われた10年が終わるはずの2000年になっても不況は終わらず、失われた10年は「失われた20年」となってしまった。


2011年には東日本大震災が起き、失われた20年は、いろんな意味でどん底に陥った。

そこに登場したのが安倍晋三首相のアベノミクスだ。


アベノミクスは高評価と酷評とに二分され、なお、評価は定まらない。

ただ、公平に見て、失われた20年が「失われた30年」になることをアベノミクスが防いだのは間違いない。


しかし、アベノミクスからの出口が見えないこともまた事実である。

では、80年代、あれほど元気でアメリカに迫っていた日本経済が、いったい、なぜ、「失われた20年」というような長期不況に陥ってしまったのだろう。


いま私たちは、失われた20年と簡単にいうが、20年に及ぶ長期不況は、主要な資本主義国として、初めて経験する異常な事態だった。

日本は20年もの不況によく耐えたというのが、正直なところだ。


1945年8月15日、日本は太平洋戦争に負け、無条件降伏を受け入れた。

当時の東京の写真を見ると一面の焼け野原で、いったいどうやって、そこから立ち直ったのかと思うほどだ。


しかし、戦後の日本は驚異の経済復興を遂げ、政府の経済白書が早くも1956年に「もはや戦後ではない」と宣言した。

1956年は、終戦から11年しか経っていない。


焼け野原の状況から、たった11年で、戦前の経済水準を回復したのだ。

ところが、バブルが崩壊した後の長期不況は「失われた20年」だ。


日本経済は、太平洋戦争の敗戦から11年で立ち直ったのに、バブル崩壊では20年経っても立ち直ることができなかったのである。

今回の長期不況は、日本経済にそれほどのダメージを与えていた。


日本の失われた20年は、バブル経済の崩壊によってもたらされた。

バブル経済の時期はいつかというと、88年、89年の2年間のことだ。


なぜそういい切れるかというと、その2年間、東証の株価は、24か月連続して上がり続けたからだ。

 


円高不況の対策に「強力な金融緩和」


実は、バブルの直前、86年から87年の夏ごろまで、日本経済は、かつてない円高不況に見舞われていた。

この円高不況で、日本企業はトヨタソニーも輸出競争力が下がり、政府も経済界も、このままでは日本経済は沈没するのではないかと本気で心配した。


そこで政府は景気対策を矢継ぎ早に打ち出し、日本銀行は強力な金融緩和を実施した。

これは86年、87年の話だ。


しかし、どこかで聞いたような話ではないだろうか。

そう。黒田東彦(はるひこ)日銀総裁の「大胆な金融緩和」だ。


大胆な金融緩和は、アベノミクスの根幹をなす。

86年、87年は、まず、政府が景気対策を打ち、次に、日銀が金融緩和を繰り返し実施した。


ちょうどそこへ、円高のメリットが遅れて効いてきた。

原油など輸入品の値段が円高によって安くなったのだ。


円高は、デメリットとしてまず不況をもたらしたが、次に、輸入原材料の値下がりというメリットをもたらした。

企業にとっては予期せぬコストカットだった。


それがみな合わさって、88年からバブルが始まった。

ではなぜ、それほどの円高がやってきたのか。


85年9月21日、22日の土日、ニューヨークのプラザホテルに、アメリカの呼びかけで、日本、アメリカ、西ドイツ(当時)、イギリス、フランスの5か国の蔵相と中央銀行総裁が集まった。

G5である。


冒頭で触れたように、当時の日本は活気にあふれていた。

欧米諸国に対して巨額の貿易黒字を出し、世界経済でほとんどひとり勝ちといっていいような状況だった。


しかし、日本から見れば貿易黒字でも、相手から見れば貿易赤字だ。

これにアメリカは不満を持ち、対日批判を強めていた。


アメリカは、日本の黒字の原因は、行きすぎた円安だと分析し、それまでの円安を円高に転換しようと考えた。

円相場は、85年8月に1ドル=240円前後だった。


いま振り返ると、よくそんな円安だったものだと、改めて驚く。

アメリカはこれを問題にし、G5の会議を開いたのである。


G5は、それまでの円安を円高に方向転換することを決めた。

日本もそれを受け入れた。


これを、「プラザ合意」と呼ぶ。

 


・1ドル=75円はプラザ合意による円高の行き着いた果て


85年9月のプラザ合意は非常に効果的で、その直前まで1ドル=240円前後だった円相場が、12月には200円台という円高になった。

翌86年早々には190円台に入り、これが円高不況を呼んだ。


後に、2009年から12年までの民主党政権で、円相場は1ドル=75円という空前の円高をつけた。

これは、プラザ合意による円高が行き着いた果ての数字であった。


2017年、18年は、1ドル=110円前後で推移しているが、これも、85年のプラザ合意から、延々と続く円相場なのだ。

85年のプラザ合意で激しい円高が始まり、それが円高不況を呼んだ。


円高不況に対応するため政府は経済対策を繰り返して打ち、日銀はどこまでも金融緩和を進めた。

そこにちょうど円高メリットが出てきた。


それらのすべてが同じタイミングで重なって効果を発揮し、バブルを呼び起こしたのである。

バブルは、88年、89年の2年間、ふくれるだけふくれて、パチンとはじけて崩壊し、90年から失われた20年が始まった。


すべては、プラザ合意に始まる。

活力にあふれた日本経済は、プラザ合意を境に、根底から変わり始めた。


プラザ合意で日本は、日本経済を弱くすることを自ら受け入れた。

それは、日本にとって事実上の降伏のようなものだった。


しかも、ただの降伏ではない。

合意を受け入れるにしても、円高が行きすぎて日本に悪影響が出た場合はG5を再び招集して、行きすぎた円高を止めるとか、合意の内容を再検討するとか、なんでもいいから、条件を提示しておけば、その後の展開も少しは違ったかもしれない。


しかし、プラザ合意によって長く激しい円高が始まり、日本経済が低迷と停滞に向かうとは、このとき、だれも予想していなかった。

そのため、プラザ合意を受け入れるとき、日本は、何の条件もつけなかった。


その結果、プラザ合意は、日本経済の無条件降伏となったのである。

実のところ、当時の日本には、プラザ合意が無条件降伏になるとの認識はまったくなかった。


それどころか、プラザ合意を主導したアメリカにも、そこまでの認識はなかったと思う。

では、日本はなぜ、プラザ合意を受け入れたのか。


合意を拒否することは不可能だったのか。

合意を受け入れた後、日本経済はどのように変わっていったのか。


85年にプラザ合意を受け入れたとき、日本経済は、すべてが変わった。

円高も、バブルも、バブル崩壊も、失われた20年も、アベノミクスも、すべてプラザ合意が源流となっている。


30年ちょっと前のことだ。

 


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プラザ合意から33年、1985年は何だったのか
~失われた20年から抜け出せていない原因は~
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