■小長啓一氏が語る「田中角栄にあって現代のリーダーにないもの」
経済界 2016年7月11日
https://www.excite.co.jp/news/article/zuuonline_121573/
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戦後70年の節目として、2015年にNHKが「戦後を象徴する人物」に関してアンケート調査を行ったところ、全体の25%を占め断トツの1位だったのが田中角栄元首相だった。
第2位の吉田茂が13%、第3位の昭和天皇が8%、第4位のダグラス・マッカーサーと佐藤栄作が3%だったので、いかに田中氏が強烈な印象を残したかが分かる。
田中氏の首相在任期間がわずか2年半だったことを考えると、この評価の高さは尋常ではない。
独特のダミ声や演説のうまさから豪放磊落なイメージを持たれることもある田中氏だが、素顔は非常に繊細。
ワンマンではなく、常に周りの意見を吸い上げながら仕事をしていた。
金権政治の象徴とされ、一時は評価が地に落ちた同氏が今再び注目されているのは、現代社会が理想とするリーダー像にマッチする部分が多いからだろう。
そんな田中氏に通産大臣秘書官として1年、総理大臣秘書官として2年半仕え、あの『日本列島改造論』(日刊工業新聞社)の編集にも大きな役割を果たしたのが小長啓一氏。
同氏に、田中角栄のリーダーシップについて話を聞いた。 聞き手=吉田浩
小長啓一(こなが・けいいち)1930年生まれ、岡山県出身。53年岡山大学法文学部法学科卒業後、通商産業省(当時)入省。通産大臣秘書官、総理大臣秘書官として田中角栄氏に仕える。84年通商産業事務次官、91年アラビア石油社長、2003年同持ち株会社のAOCホールディングス社長。03~04年アラビア石油会長。04~08年AOCホールディングス相談役。07年弁護士登録し、現在島田法律事務所に所属。
・田中角栄流リーダーシップとは?~「やらなきゃいかん」と周囲に思わせる~
―― 田中氏と出会った時の印象は。
小長 通産省時代に大臣秘書官としてお会いしたのが最初で、その時の印象は、会った瞬間に後光が差すような感じでした。これはただ者ではないなと。前任の通産大臣は宮澤喜一さんでしたが、宮澤さんの秘書官からの引き継ぎではあまり参考にならないと直観的に思いました。それで、田中さんが前に大蔵大臣を務めた時の秘書官を訪ねて、どういう対応すれば良いのかと聞いたら「とにかく忙しい人だからついていくだけで大変だよと」とアドバイスを受けました。
―― 実際、仕えてみていかがでしたか。
小長 イメージ以上にスピーディーな人でしたね。目白の田中邸に朝7時半に行くと陳情客が20組くらい来ているのですが、就任して2、3日目のある朝行ったら「君、今朝の日刊工業新聞にこんなことが載っていたが、どういうことかね」と聞かれました。
当時私は日経新聞と朝日新聞しか読んでいなかったので、日刊工業の1面トップなんて知らない。答えられないと大変ですから、翌日から7紙を家で取るようになりました。渋谷の公務員住宅から車で目白に行くまでの30分の間に新聞を拾い読みして、答えられないようなテーマがあれば車内電話で担当局の局長や課長などに電話して予習していました。
朝6時に起きて7時半には陳情客に対応するというのを田中さんは徹底していました。陳情への対応は一組につき3分。スピーディーの極致ですね。
自分の選挙区がらみの陳情については、人の顔を見れば何を言いに来ているのかサッと分かるから、説明も受ける前から「あの件については……」と答えが出てしまう。それぐらい地元の事情については分かっていました。
―― 命じられたことができなかった時は、厳しく叱られたのですか。
小長 いえ、サッと終わりです。対応できていないこっちが悪いのだから、対応策を考えなければいけないと思わせる人でした。秘
書官に就任して1週間ぐらいたった時、「君は生まれはどこだ?」と聞かれて「岡山です」と答えたら、「岡山なら雪は川端康成のロマンの世界だな。しかし俺にとっては生活との闘いなんだ」とサラっとおっしゃった。私は秘書官になる前は立地指導課長を務めていて、工業を日本全体にどう配置するかを考え、地方事情についても勉強したので知識についてはそれなりに自信を持っていました。でも田中さんにそう言われて「国土開発についての年季が違う」と、思い知らされました。
田中さんのやってきた国土政策を徹底的に勉強しなきゃいかんなと。それで、都市政策大綱をあらためて読み直したり、それまでに田中さんが成立させた議員立法を読み直したりして、それがのちに『日本列島改造論』の作業につながるわけです。考えてみると田中さんは人の使い方がうまい。雪にかこつけて、「君は俺に比べると勉強が足りないよ」と、暗に伝えていたんです。言われたほうは、やらなきゃいかんと思ってしまう。
・日本列島改造論 ベストセラーになった『日本列島改造論』~「上からではなく同志として付き合う」~
―― 田中氏に関する資料などを読むと、小長さんに限らず周りが自発的に動くケースが非常に多い印象です。権威で人を動かすタイプではなかったようですね。
小長 徹底的に怒られた人はいないのではないでしょうか。偉くなっても稲穂が垂れるがごとく、常に下から目線で対応したのもすごいことです。周りの人が動いたのは角栄さんだからというのはあるでしょうね。
―― なぜ、そこまで人望が厚かったのでしょうか。
小長 1年生議員から政調会長になるまでの10年間の下積みの時代に、議員立法を25本以上成立させて、それもすべてご自分が主答弁者でした。法案作成から答弁まですべて議員自身がやらなくてはならないので、役人と同じレベルの知識が必要です。
その過程で、役人が法案を作るときどこで苦労しているのか、どこがツボであるのかを全部把握していました。そこが、ほかの政治家とは全然違います。法案を作る過程で、各省の若い連中と仲良くなっていき、総理大臣になるころには彼らが各省の局長になっていました。だから役人と電話1本、ツーカーで話せたんです。総理が指示するという感じではなく、昔の同志として話ができたんですね。
―― 将来総理になることを目標に、人付き合いをしていたわけではないんですよね。
小長 そうですね。72年に列島改造論を出す時も、田中さんの1日数時間、4日にわたるレクチャーをベースに当初は1年がかりでとりまとめる予定でしたが、その後の総裁選を意識した感じではなかった。
ところが二階堂進さんが私のところにやってこられて、総裁選がある7月に間に合うよう日程を繰り上げてくれないかと言われたんです。結果的にはそれが総理就任のマニュフェストになったわけです。
・田中角栄氏が優れたリーダーだった3つの理由~現代人が懐かしむ現場感覚と1億総中流の思想~
―― 田中氏はどんなことでも理由を3つに限定して説明するよう、周りに指示していたと言われます。それに倣って、田中氏が優れたリーダーであった理由を3つに限定するとすれば。
小長 ひとつは国土維新の志です。明治100年に当たる昭和47年は国土維新によって、東京への「ヒト、モノ、カネ」の流れを地方に逆流させる、そのために、全国を1日行動圏にしないといけないと強調していました。列島改造の原点ですね。
2つ目は「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」と田中さんはよく言っていましたが、チームワークや人間関係を大事にすること。吉田茂さん、池田勇人さん、佐藤栄作さんと歴代首相を担ぐ中で学んだのだと思います。
3つ目は、徹底的な敵を作らないこと。人をほめるのは皆の前で、叱るのは1対1でというのを実践し、議論する時も相手を最後まで追い詰めずにその手前で止めていました。味方は1人でも多く、敵は1人でも少なくということですね。
―― 田中角栄にあって今の政治リーダーにない部分を挙げるとすれば。
小長 現場感覚がどれだけあるか、ではないでしょうか。先ほど申し上げた朝の陳情や夜の業界人との会合などを通じて、アンテナを広く高く張ってそれを政策に生かすという姿勢。それを、今の政治家がどこまでできているかは疑問です。
今は4人に1人が世襲議員で、それ自体は悪いことではないのですが、選挙区は地元でも東京生活が長い議員が多い。選挙区の細かい実態について、肌身で知る機会が少ないのではないでしょうか。加えて、選挙区が人口比で決まるため、地方はますます代表者が減っていきます。地方の意見がより反映されるシステムが、日本にはなくなりつつある気がします。地方についてもう少し重視しないと、国土の均衡ある発展にはつながらないと思います。
―― 一時は地方への利益誘導政治が批判されましたが、ここにきて地方活性化がうたわれ、昔の良い部分が見直されている印象です。
小長 列島改造論の根底には、一億総中流の思想がありました。最近の新自由主義の流れの中で、中産階級の間で格差が広がり、それが米国のトランプ現象にも表れています。日本にもそういう傾向が出てきたため、一億総中流を目指した田中さんへの郷愁があるのでしょう。
田中さんが総理大臣になった時の、全国的な盛り上がりはすごかった。総理になってすぐ、当時の経済企画庁長官に列島改造審議会を作ろうと命じて、具体的にどこから手を付けるのかを議論しようと提案したところ、全国から自薦他薦を含めて参加希望者が150人も集まったんです。あのものすごい期待度は、今の地方創生には見られません。
・企業経営者が田中角栄氏から参考にすべき点とは
―― 企業経営者にも、田中角栄のリーダーシップは参考になりそうですね。
小長 田中さんがいつも言っていた「仕事は人に任せ、責任は自分が取る」ということが重要だと思います。
社長になってから何をしようか考えるのでは遅い。田中さんは総理になる前から、なったら何をするかを考えてきました。中国との国交正常化も、総理に就任してすぐに行いました。その時、ひそかに私に言ったのは「今太閤ともてはやされ、権力絶頂の時にこそ、一番難しい問題に挑戦しなきゃいかん」と。そして、「中国の周恩来や毛沢東などの革命第一世代が目の黒いうちにやらないとダメだ」と。
2代目以降はどっちを向いているか分からないから、というのが理由です。
―― そういう姿を見て、さらに周囲からの支持が集まるということなんでしょうね。
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小長啓一氏が語る「田中角栄にあって現代のリーダーにないもの」
経済界 2016年7月11日
https://www.excite.co.jp/news/article/zuuonline_121573/
■田中角栄氏は「リーダーの資質」傑出 弁護士、元通産事務次官・小長啓一氏
産経新聞 2017/10/17
https://www.sankei.com/article/20171017-VRWGE37Z7FMLLIMERUGAYFCRUU/
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田中角栄氏との出会いは昭和46年7月。
第3次佐藤改造内閣で田中氏が通商産業相(現在の経済産業相)となり、私は秘書官として仕えることになった。
田中氏は蔵相(財務相)を経験し、在任時の秘書官の「とにかく忙しい人。ついて行くだけで大変」という言葉が印象的だった。
昨年、反田中の急先鋒(きゅうせんぽう)だった石原慎太郎氏が『天才』を出版し、田中氏をべた褒めされた。
作家として田中氏ほど大きなインパクトとインフラストラクチャーを残した政治家はいない、その偉大な足跡を書き残さねばならないと評価したのだと納得した。
田中氏は人間力、構想力、決断力、実行力といったリーダーに求められる資質で傑出していた。
構想力として田中氏には財源を生み出す知恵があった。
戦前は国や軍の意思を地方に伝えるための道路を、田中氏はモノを運び、ヒトが動くための生活の手段と捉え、道路特定財源制度を実質的に議員立法で27年に創設した。
47年7月に首相になると大きな反対の中、9月に訪中して5日間の交渉で日中国交正常化を果たして大きな決断力を示している。
「一番難しい問題に挑戦しなくてはならない。それが政治家としての宿命」だと語り、「毛沢東、周恩来という革命第一世代の目が黒いうちに問題を片づけるのが時代の要請」と機会を逃さなかった。
実行力、交渉力、説得力については郵政相(総務相)在任中、テレビ局40社以上に一斉に免許を与えて全国各戸にテレビがある時代へとつなげた。
蔵相時代の40年、証券会社に前例のない無担保の日銀特融を行って金融不安を回避。学生運動最盛期の44年には参院議長のところに押しかけ、継続審議で引き延ばそうとしたのをやめさせて採択に持ち込んで、問題を一気に沈静化させた。
通産相としては大平正芳、宮沢喜一両氏の2代にわたって解決できなかった日米繊維交渉を4千億円の通産省予算に対し、繊維業界に2千億円もの支援を行うことで決着させた。
48年の第1次石油危機では2カ月で2つの法律を制定し、資源外交で安定供給を取り付けた。
翌年には電源3法を制定して脱石油依存の道筋をつけるなどの措置を次々と繰り出し、極めて強いリーダーシップを発揮した。
最大の魅力である人間力は、母親の背中を見つめ、アルバイトを積み重ね、下積みの苦労を自ら行って、失敗から成功を勝ち取る道筋を手探りして得たもので、人間学博士だった。
下からの目線で人と接し、親分肌で人情家。就職、結婚などの世話をいとわず、手柄は先方に与え、泥を自分でかぶる利他の心をモットーとした。
縁を大切にし、必ず礼を通す姿勢を貫いていた。
【プロフィル】小長啓一 こなが・けいいち 昭和5年、岡山県生まれ。旧制第六高等学校を経て岡山大学卒業。28年、通商産業省(現在の経済産業省)に入省。46年に田中角栄通産相秘書官となり、「日本列島改造論」の作成に参画。田中首相秘書官、経済政策局長などを歴任し、59年から61年まで事務次官を務めた。退官後はアラビア石油に入社し、平成3年に社長に就任。19年に弁護士登録。島田法律事務所所属。
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田中角栄氏は「リーダーの資質」傑出 弁護士、元通産事務次官・小長啓一氏
産経新聞 2017/10/17
https://www.sankei.com/article/20171017-VRWGE37Z7FMLLIMERUGAYFCRUU/
■「田中角栄」は何がスゴかったのか?
最もよく知る男が語る「決断と実行力」
東洋経済新報社 2016/11/04
https://toyokeizai.net/articles/-/141468
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・「俺は十年後、天下を取る」
私があの人(田中角栄)のところへ弟子入りしたのは、新聞記者をしていた32歳のときでした。
昭和37(1962)年12月10日に大蔵大臣秘書官事務取扱という辞令をもらったんです。
実はその前の12月2日、大蔵大臣室に呼ばれまして、そのときに、オヤジさんが私に言った。
「俺は十年後、天下を取る」
いきなりです。
正直に言って、「頭がおかしくなったんじゃないか」と思いました。
その年の7月、44歳の若さで池田勇人(はやと)首相に大蔵大臣という大役に抜てきされたばかりでしたから……。
それなのにもう今度は天下取りか、と思ってじっと顔を見た。
それでも本人はまじめな顔をして、気負った様子がありません。
「お互いに一生は1回だ。天下取り、これだけの大仕事がほかにあるかい」
と言うので、「ありません」と答えました。
「ならば一緒にやろうじゃないか。片棒を担げ。お前が学生時代、共産党だったことは知っている。公安調査庁から書類を取り寄せて目を通した。よくもまあ、アホなことばかりやった。若かったからね。あの頃の若い連中は腹も減っていたし、血の気が多いのは、あらかたあっちへ走った。それは構わない。そのぐらい元気があったほうがいい。ただ、馬鹿とハサミは使いようだ。俺はお前を使いこなすことができるよ、どうだい、一緒にやらないか」と、にんまり笑いました。
私は、「一晩、考えさせてほしい」と答えた。
そして、下宿でまんじりともせず考えた。
自民党が金権と腐敗の温床である現実はわかっている。
だけど、社会党は天下を取る気がまったくない。
日中――日本と中国が仲良くしなきゃならない。
これは私の若いときからの夢でした。
田中ならばできる。
彼の決断力と実行力、情熱と闘争心はほかに例がない。
自民党でドロまみれになるけど、日中問題を解決できるなら男子の本懐だ。
そう結論を出して、私は翌日、弟子入りしました。
・命を賭けて成し遂げた日中国交回復
田中角栄と言えば、多くの皆さんに「日中」というのがすぐ出てくるわけですが、私が今でもよく覚えているのは、あの人が天下を取った昭和47(1972)年7月5日の光景です。
福田赳夫さんに自民党の総裁選挙で競り勝ったあと、総理官邸2階の天井が低い執務室で、あの人は、私に言った。
「日中を一気にやる。鉄は熱いうちに打て。俺も今が一番力の強いときだ。厄介な問題は力が強いときに一気にやらなきゃ駄目だ。先延ばしをして力がへたってからやろう、なんて考えてもできるはずがない。それに俺は毛沢東、周恩来という男たちを信用している。連中は共産党だ。だけど、死線を何十回も超えてきた。修羅場を何百回もくぐり抜けてきている。そうした“叩き上げ創業者オーナー”というのは、大事を決するときに信用できる。今は何をしなきゃならんか、自分が何を譲って、相手から何を取るか、それをよく知っている。おそらく毛沢東や周恩来は俺に、『台湾とだけは手を切ってくれ。日米安保条約はそのままでいい。我慢ならないことだけれども、賠償に目をつぶってもいい』。この線で必ず来る。今がチャンスだ。俺は一気にやる。秋口までに片づける」
そう言いました。
私は体がふるえたことを今でも覚えています。
あのとき、自民党内は八割が台湾派であった。
岸信介さんを総大将にして弟の佐藤栄作さん、それに石井光次郎さんや賀屋興宣(かや おきのり)さん、灘尾弘吉(なだお ひろきち)さんというそうそうたる大立者がデンと控えていました。
これを中央突破して、党議決定に持ち込むのは至難の業だ。
ならば、政府声明でやる。
「腹の中に銃弾百発もぶち込まれる覚悟がなければ、政治のトップなんていう仕事はできない」
こう笑って、あの人は一気にやりました。
・「あのくそじじい、ぶっ飛ばしてやる」
大学管理運営法という法律があります。
昭和44(1969)年の1月10日、東大の安田講堂が元気のいい全共闘に占拠されて、全国の大学に紛争の火の手が走り、大混乱になりました。
大学の先生たちは失礼だけど、臭いものにふたで、一本気な若者たちと正面から向かい合い、大学の管理システム改善の議論をする当事者能力がなかった。
オロオロするばかりです。
東大の入試が延期、つまり、実施不可能になった。
ほかの大学にも連鎖反応する状況になった。
子供たちは勉強できず、卒業もできない。
この頃、田中はちょうど自民党幹事長の職にありました。
後に衆議院議長となった仲良しの坂田道太(みちた)さんが文部大臣をやっていた。
その坂田さんの大親友が東大学長の加藤一郎さんです。
この三人が密接な連携プレーをとって、大学の大火事を消すための法律をつくった。
私も随分、使い走りをやらされました。
やっと法案ができて、衆議院に提出され、何とか可決に持ち込みました。
ところが、法案は、参議院に送られたのはいいけれど、ガチャンと留め金をかけられて動かない。
日教組出身の社会党の連中が「大学自治の侵害だ」といきり立っている。
本当は総理大臣の佐藤栄作さんが、「社会党もワアワア反対しているし、新聞の論調もあまり賛成する気配でもない。急ぐことはないんじゃないか」と考えて、それが審議停滞の根っこにありました。
当時の参議院議長は重宗(しげむね)雄三さんという名物議長で、80歳を過ぎても元気一杯なじいさんです。
佐藤総理とは肝胆(かんたん)相照らすというか、ツーカーの間柄で、とても仲良しでした。
この大将がなかなか腰を上げない。
同じ昭和44(1969)年の7月27日でしょうか、会期末が目と鼻の先に迫り、時間切れで大学管理運営法案が廃案になりそうでした。
角栄さんが衆議院の自民党幹事長室で、「あのくそじじい、ぶっ飛ばしてやる」と大声を出し、いきなり立ち上がって、参議院議長室に走り出した。
そうしたら筆頭副幹事長の二階堂進さんがあとに続いた。
あの人も気性が真っすぐで血の気が多い薩摩隼人です。
私はびっくりして2人を追って走り出した。
3人でぜいぜい息せき切って議長室へ飛び込みました。
重宗さんが呆気にとられて、「角さん、どうした。血相変えて……」。
そうしたら、角栄さんが一気にまくし立てました。
「おい、じいさん、お前さんは子供も孫も全部でき上がって、世の中に出てるからいいけど、自分の食うものもへずって、子供を学校に出して、カネを送っている親たちは、この先みんな大学がどうなるか、真っ青になっているぞ。講義を聞いて、進級し、卒業したい子供たちも今の騒ぎで大学に行けなくて困っているぞ。今すぐ本会議を開くベルを鳴らせ」
ところが重宗さんも負けていません。
「おい角さん、お前は意気がってそんなこと言って、たんかを切っているけど、おやじ(佐藤首相)はお前さんと違うぞ。そんなにしゃかりきになって、ぽっぽと頭から湯気なんて出していねえよ。考え違いするな」
そうしたら田中がまた、怒り出しましてね。
「それは総理もお前さんも同じ極楽トンボだからだ。いいから、とにかくベルを鳴らせ。時間がないんだ。四の五のぬかすと、じじい、この窓から下に叩き落すぞ」
さすがに重宗さんも、「まあ、そうがんがん言うな」と田中をなだめ、官房長官の保利(ほり)茂さんに電話しました。
「角さんがカッカカッカしてお手上げだ。しょうがないからベルを鳴らす」
法案が成立して、大学に静けさが戻りました。
そして二度と再び大学にああいう反乱の大火事が起こることはなくなった。
それが今に続いています。
この年(昭和44年)の暮れ、12月27日に衆議院総選挙がありました。
世間、とくにマスコミは、「沖縄返還選挙」と名づけて、自民党は300議席を得て大勝しました。
勝った理由は「沖縄だ」というのが大方の論評だったけど、私は腹の中で、「それは違うんじゃないか。本当は大学管理運営法が成立して、大学が静かになった。本来の勉強するキャンパスに戻って、日本じゅうの親たちがホッとした。子供の通う大学を静かにしてくれて、佐藤さん、本当にありがとう。こうした有権者の思いが政権の信任につながった」と考えていました。
今でもそう思っています。
大学紛争当時の田中幹事長の決断の速さというか、それに判断は見事でした。
私は自分の仕えた親方ですけど、本当のところ、今でも感心しています。
・“角栄学校”の生徒たちに伝授した選挙必勝法
田中角栄さんは自民党の内外で“選挙の神様”と言われた人です。
議会制デモクラシーでは選挙に勝たなければ与党になれない。
真実の世論は各級選挙の結果しかありません。
昭和44(1969)年の春、何日だったか忘れましたけど、小沢一郎さんが初めて田中幹事長の前に立ったことがあります。
彼はもともと弁護士になりたかった。
岩手県出身の代議士だったお父さんの佐重喜(さえき)さんは岸元総理の盟友でしたけど、この方が急に亡くなって、結局、長男の一郎さんが、不本意ながら二世政治家の道を歩む結果になった。
そして、お母さんの勧めがあり、田中のところへ来たわけです。
まだ26、7の青年で、かわいい顔をしていた。
今のような憎たらしい顔ではなかった(笑)。
そのときに、田中が小沢一郎さんに言ったことは、「一郎君、親の七光りを当てにするな、カネは使えばなくなる。戸別訪問三万軒、辻説法(つじせっぽう)5万回をやれ。それをやり抜いて、初めて当選の可能性が生まれる。やり終えたら改めて俺のところへ来なさい」ということでした。
あの人は「弟子入りしたい」という若い政治家の卵には誰に対しても判子で押したように、こう言いました。角栄さんが亡くなって、私は改めて当時の精悍(せいかん)な親方と、若かった小沢さんの顔をだぶらせて、懐かしく思い出しています。
それと世間の人はあまり知らないようですが、角栄さんは戦後日本が生んだ“議会政治の申し子”でした。
人民の海から生まれた政治家だった。
衆議院、議会というところは、議員さんたちが集まって、選挙民、つまり国民から「あれをやってくれ」「これやってほしい」と言われたことを自分たちが責任を持って議論して、法律にまとめあげ、実施するのが本来の役目です。
だから、立法府と呼ばれる。
ところが今、国会に提出される法案の9割9分は霞が関の秀才たちが用意しています。
私の親方は違った。政治家として73の議員立法を手がけました。
あの人は昭和22年4月、新憲法下第一回の総選挙で当選したんですが、39歳で郵政大臣になるまで無名時代の十年間に議員立法を22もつくった。
焼け跡の日本を再建、復興させ、田舎の人たちの暮らしもよくしなければならない。
これにまっしぐらに進んだ。
この時代にガソリン税を創設して、今の道路網の財源にしました。
今の政治家の皆さんは、役人におんぶに抱っこが目立ち、鼻先であしらわれて、本当は馬鹿にされている。
目線が現行法体系を越えられず、あと追い投資に終始する役人に使われるのではなく、角栄さんの実績に学び、議員立法に目を向けてほしい、としみじみ思っています。
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■「田中角栄」は何がスゴかったのか?最もよく知る男が語る「決断と実行力」
東洋経済新報社 2016/11/04
https://toyokeizai.net/articles/-/141468
■なぜ田中角栄は全国民に愛されたか 田中角栄が残した偉大な3つの功績
・ここへ来ての「角栄ブーム」に日本人は何を求めているのか
ダイヤモンドオンライン 2016.5.6 鈴木貴博
https://diamond.jp/articles/-/90482
■官僚的なるものとの対決 「天才」角栄の魅力を描く
「西郷隆盛、乃木希典、田中角栄。戦後を代表する思想家、吉本隆明が日本の近代史を考えるうえで、最も重要な人物として挙げたのが、この3人だった」
毎日新聞 2016年4月5日 重里徹也・文芸評論家、聖徳大教授
https://mainichi.jp/premier/business/articles/20160403/biz/00m/010/001000c
■名もなき庶民が日本の主役だった「田中角栄の時代」があった
週刊ポスト 2015.06.30 山本皓一
https://www.news-postseven.com/archives/20150630_332539.html?DETAIL
■コロナ禍だから響く「田中角栄の7金言」元秘書が明かす
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/283358
■消費税撤廃、アジア版列島改造、そして格差是正……ニッポン経済復活へ、田中角栄ならこうする
週刊現代 2016.06.01
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48754