oonoarashi’s blog

日銀金融緩和で刷られた円の行き先が日本企業でも日本国民でもないカラクリ(Dr.苫米地 2016年9月15日TOKYO MXバラいろダンディ) https://www.youtube.com/watch?v=tvzNqO6qsGI

【本当は楽しい数学!】「数学嫌い」公式ばかりを覚えて本当の楽しさを知らない~「サイエンスは暗記物ではない」ノーベル賞物理学者、真鍋博士の教育論~


■「サイエンスは暗記物ではない」ノーベル賞物理学者、真鍋博士の教育論

Newsweek 2022年01月14日

https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2022/01/post-1256.php


~~~


<大学入試対策の結果として、日本では文系志望の学生が物理、化学を敬遠するようになってしまった>


大学入試の季節がやってきました。

今年の場合は受験生にとっても、実施側の大学にとっても、寒波とコロナ禍への対応が特に大変だと思います。


大学入試と言えば、ノーベル物理学賞を受賞された真鍋淑郎博士と対談した際に、博士が入学試験や科学教育について語っておられたことが気になっています。

この対談では「問題を提起する能力が日本の教育には必要」だという議論がされて、このメッセージを中心に朝日新聞の記事でも取り上げられています。

 

記事の中でも真鍋博士が「入学試験のための勉強」を批判されているコメントが紹介されていますが、対談の中ではもう一つ「サイエンスは暗記物ではない」という重要な提言もされていました。


入試の季節にあたって、この博士のメッセージについて考えてみたいと思います。

真鍋博士の専門は気象学ですが、国際的な学問のジャンル分けとしては「地球物理学」になります。


この地球物理学は、同じ物理学の中でも「理論物理学」ではなく「応用物理学」に属しており、同時に「古典物理学」に属しています。

ちなみに「古典物理学」と言うのは、ここでは「原子や分子より極小の量子を扱う量子論」と、「相対性理論」は含まない物理学という意味です。

 

・日本では気象学は地学


真鍋博士によれば、現代のノーベル物理学賞というのは量子論相対性理論以降の現代物理学の成果を対象としたものが主で、自分のように古典的な物理学を扱っている研究が認められるのは珍しいとおっしゃっていました。


例えば、今回の受賞が「完全なサプライズだった」というのは、2018年にノーベル賞と同格と言われている「クロフォード賞」を既に受賞していたからということもありますが、同時に「古典物理学」がノーベル賞を取るということは想定していなかったという意味でもあるそうです。


一方で、日本の高校生にとっては気象学は物理には属していません。

地学という特殊な科目の一部となっていて、天文学、地質学と一緒に学ぶことになっています。


真鍋先生によれば、その結果として「サイエンスが暗記物になっている」のは問題だというのです。


真鍋博士によれば、気象学とは、地球の大気の動きを運動方程式を使ってシミュレートする学問であり、物理の基礎と数学という道具がなければ理解は難しいし、「何故?」という好奇心をバネに説明や発見を試みることもできないわけです。


運動方程式を抜きにした天文学、化学の知識を抜きにした地質学というのも同様です。


現在の共通テストやセンター試験の原型は、1978年から導入された共通一次試験ですが、例えば東京大学の場合は、その前に大学独自に実施していた一次試験でも、文系理系を問わず「理科2科目」を課していました。


これは、真鍋博士が在学しておられた時代に、当時の南原繁総長、矢内原忠雄教養学部長が「教養課程を充実させて文理問わずリベラルアーツを学ばせる」という方針で1・2年生を駒場キャンパスに集めた思想の反映だと思います。


ですが、結果的には文系志望の受験生の多くは、理論的な理解を必要とする「物理、化学」を敬遠して、「生物、地学」を選択することになりました。

この「悪しき伝統」は共通一次以降も引き継がれています。


つまりそうした学生にとってサイエンスは、原理原則の理解から世界を説明し、問題を解決する学問ではなく、現象面とその用語を頭脳に叩き込む「暗記物」になっているのです。

真鍋博士自身も「若い時には生物学は暗記物だと敬遠」しておられたそうですが、90歳になる今になって「モレキュラー・バイオフィジックス(分子生物物理学)」を学び直しておられるそうです。


「生物の進化を遺伝子がコントロールし、その際にはDNA、RNAが情報を渡してゆく、その奥にはタンパク質の働きがある」ことは、そのメカニズムを理解しなくてはダメで、暗記しただけでは全く役に立たないというわけです。

この「サイエンスを暗記物にしてしまう」という傾向は、長い間に日本社会に多くの問題を残してきたように思います。


まず、これによって文系の人々によるサイエンスの理解と、理系によるサイエンスの理解が大きく離れることになりました。

その結果として、1980年代以降、日本が「より高いテクノロジーの水準」へと進むチャンスにおいて、政府も個々の企業も正しい判断ができなかったという問題があると思います。


科学技術における現在の日本の競争力後退の一因という見方も可能でしょう。

 

・物理・化学・数学の基礎教育の大切さ


遺伝子関連の技術や原子核物理学の平和利用に対して、科学的な議論が社会的に十分でないこともこの問題が背景にあると思います。


気象学に関していえば、気象予報士試験が、しっかり熱力学などの原理を問うような問題構成になっているのはいいのですが、せっかく高い関心がある一方で、合格率が2%前後と低くなっているのは、実にもったいないと思います。


本来は、21世紀の現代では、大学における文系と理系の区別を廃止すべきですが、それ以前の問題として、高校レベルでの教育を見直すことで「サイエンスを暗記物で済ませてしまう」若者を無くしていくことは急務ではないかと思います。


同時に、数学教育のテコ入れも必要です。

物理や化学、そして生物の基本的な法則を理解して使うには、数学の力も必要だからです。


真鍋博士によれば、大学に入る前に「物理現象を理解し、化学現象を理解して、問題をいっぱい解く」ことが大切だそうです。

そうすると、「物理、化学、数学の基礎ができる」ことになり、「将来いろいろな問題に適用するときに素晴らしいご利益がある」というのです。


日本のサイエンスの水準を作ったこうした基礎教育を大切にしながら、それを高校生の段階で更に生物学などに拡張し、文系の専攻を考えている若者にも基礎の部分はしっかり理解させていく、つまり日本の教育の長所を活かしつつ、それを時代の要請に従って改良してゆくことが大切、博士のお話をうかがっていてその点を強く考えさせられたのです。


~~~
「サイエンスは暗記物ではない」ノーベル賞物理学者、真鍋博士の教育論
Newsweek 2022年01月14日
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2022/01/post-1256.php

 

 

 

 

 


■「数学嫌い」の人は暗記教育の犠牲者といえる理由~公式ばかりを覚えて本当の楽しさを知らない~

東洋経済 2021/12/15 芳沢 光雄 : 桜美林大学リベラルアーツ学群教授

https://toyokeizai.net/articles/-/475479


~~~


PISAやTIMSSなどの国際的な学力調査結果、あるいは全国学力テストの結果が発表されるたびに、「日本の子どもたちは単純な計算は得意である反面、論述問題や応用問題はそうとも言えない」という報告が出る。


同時に、日本の子どもたちの数学嫌いは顕著であることが指摘される。

本稿では、この数学嫌いの問題を自らの教育経験を通して考えてみたい。

 

・数学重視の方向へシフトしているが…


2019年3月に経済産業省が発表したレポート「数理資本主義の時代~数学パワーが世界を変える」では、「社会のあらゆる場面でデジタル革命が起き、『第四次産業革命』が進行中」で、これを主導するものとして数学の重要性を訴えている。


前後して経団連も「文系大学生も数学を必修として学ぶこと」の提言を出している。

それに呼応するかのように、早稲田大学政治経済学部の一般入試で数学を必須科目に変更し、文部科学省も私立大学文系学部入試での数学の必須化を促す姿勢を固めたという(2021年7月8日読売新聞オンライン)。


上記の動きは日本の将来にとってプラスと考えるが、一部の大学を別にすると、ほとんどの大学では数学に関するそのような改革は遅々として進まないと予想する。

国政レベルでも、数学の教育や入試に関する議論が活発に行われることはないと考える。


それは、多くの国民が数学嫌いである現状を踏まえれば、仕方のないことだろう。

結局、「好きこそものの上手なれ」を信じて、多くの子どもたちを数学好きにもっていくことが緊要である。


まず、「数学が好きになる」とはどういうことかを考えてみよう。

単純な計算問題を誰よりも早く解くことだろうか。


数学マークシート問題を裏技によって素早く解くことだろうか。

出題されそうな問題の答えだけをすべて丸暗記することだろうか。


このような学習を積み重ねても、試験ではそれなりに点数は取れるものの、「数学が好きになる」ということとは無縁である。

万が一そう言ったとしても、球場で食べる弁当が美味しいから「野球が好きになった」と言っているようなものである。


筆者は大学専任教員として44年間過ごしてきて、来年度末で定年退職となる。

その間、非常勤を含む10の大学で文系・理系ほぼ半々で、合わせて約1万5000人の授業をもってきたことになる。


90年代後半からは、小中高校の出前授業でも約1万5000人の生徒に話してきた(半分は手弁当)。

数学好きな大学生や生徒が数学に興味・関心を示すのは、「なぜそのような性質がいえるのか」というプロセスや、「そのような応用例もあるとは不思議だ」という楽しい応用話である。


したがって、質問は「どうしてこれが成り立つのですか」という部分に集中する。

14年前からは、本務校として桜美林大学リベラルアーツ学群に勤めている。


10年以上前に「就職委員長」であった頃、数学嫌いの学生たちは就職適性検査の非言語問題(数学や論理の基礎的問題)に弱いことが問題となった。

そこで当時、ボランティア授業「就活の算数」を後期の毎週木曜の夜間に開催した。


昼間の教職や数学などを含めると週に10コマ近い授業であったが、昔の寺子屋のように生き生きしたもので、数年間で1000人ぐらいの学生に楽しく学んでもらった。

その授業は後に、リベラルアーツの発想をアレンジして正規の授業になり、来年度末の筆者の定年退職まで続く。


その授業を通して得たものは以下のようにはかりしれない。

 

・理解せずに暗記に頼る学習の弊害


桜美林大学の学生は心掛けがすばらしく、授業態度はかなり良い。

その一方で、数学の学び方が小学生の頃から間違っていたと思われる学生が少なくない。


すなわち、なんでも理解せずに暗記に頼る学習である。


多項式微分積分の計算はできる学生に、「AグループまたはBグループに所属する学生の人数は、『Aの人数+Bの人数-AかつBの人数』だから……」と話すと、「それって暗記した記憶はありませんが、暗記するものですか」と質問する。


それと似たような不思議な質問は枚挙にいとまはないが、いくつか紹介しておこう。


等式の右辺にある項を左辺に移す移項に関して、「両辺に-aを加えるから、右辺にあるaを左辺に移すとマイナスが付く」と説明すると、「初めて移項の意味がわかりました。そうすればよいと単に暗記していました」と答える。


かけ算の筆算に関して、「10の位の数をかけるから1つずらして書いて、100の位の数をかけるから、さらに1つずらして書く。

本当は10の位の数をかけるときは最後の0を省略しないほうがよいかもしれない。


同様に、100の位の数をかけるときは最後の00を省略しないほうがよいかもしれない。


なぜ3桁同士のかけ算の学習が必要かと言えば、ドミノ倒しやボックスティシュのように、帰納的に次々と続く性質の理解には『3』が大切なんです」と繰り上がりの仕組みを図に描いて説明すると、「よくわかりましたけど、こんな説明を聞いたのは人生で初めてです」と答える。


中学数学でコンパスと定規で図を描くときの作図文を学んだ経験がなかった多数の学生に、「この作図文をしっかり学んでおけば、地図の説明のように、一歩ずつ論述する文を書くときにプラスになる。あまり学んでないからこそ、何年か前に千葉県の県立高校入試の国語で、おじいちゃんに道案内する文を書かせる問題が出題されたとき、なんと半数が0点でした」と作図文の意義を説明すると、「えーっ、みんな言われた通りにコンパスと定規で図を描く方法を暗記したことはありますが、そのような文章を書いた経験はほとんどないと思います。作図文を書く意義がわかりました」と答える。

 

・凶悪事件のアリバイで理解する「背理法


結論を否定して矛盾を導くことによって結論の成立をいう「背理法」を復習するとき、次のように学生に語りかける。


いま、運悪く凶悪事件の容疑者として私は警察に逮捕されてしまった。刑事さんに、「その事件があったとされる時刻に、私は他の場所にいました」と訴えたところ、刑事さんは私に「そのアリバイはありますか」と質問した。


これは次のように考えることができる。「私は犯人でない」を結論とする。

そしてこれを否定すると、「私は犯人である」になる。


すると犯行時刻には、私は犯行現場にいたことになる。

もし、その時刻に居酒屋などの他の場所に私がいたことが実証されたならばアリバイが成立し、「私は犯人である」は矛盾となる。


このような論法も「背理法」です。


このように説明すると、一部の学生からは「えーっ、それも背理法ですか??確か同じ数字を2度かけて2になる数の√2が(分数として表わせない)無理数になることの証明が背理法ではなかったですか」という質問を受ける。


筆者の就職委員長時代のボランティア授業は、このような形で脈々と進化しながら続けてきたこともあって、学生からの感想文も以下のように興味深いものが多く寄せられる(今年度前期分から)。

 

・数学で答えがわからないとき、すぐに答えを見てうつすという行為をしていたが、そんなことは意味がなく、考えるということの重要性を学んだ。

・授業では、相手を理解させているかどうかがとても重要なのだと感じた。

・考えることの重要さや勉強のやり方など、ずっと頭に入れておきたいことばかりだった。自分に子どもができたら絶対にこの話をして、考える子どもになってほしいと思った。

・なぜ、このような公式ができるのかなど、根本から学ぶことができた。あみだくじの仕組み方の内容がすごいと思い、いろんな人に教えたくなった。

・問題に対しては、「公式を覚えて正しく使えるようにならなければ」と急いでいた。その焦りが余計にわからなくさせていたのかもしれない。

・高校に進学するために塾に通ったとき、なぜこうなるのか?なぜこの解き方をするのか?について、時間をかけて答えてくれる先生に出会いました。教えてもらった範囲は、時間がたっても忘れませんでした。苦手な教科が好きな教科にかわる瞬間でした。

 

リベラルアーツ学群での来年度の筆者のゼミナールは、定員10人のところ20人の参加で構成されることになった。

リベラルアーツ学群らしく、さまざまな専攻から学生が集まり、数学、コミュニケーション、ビジネスエコノミクス、心理学、生物学、情報科学、哲学、環境学からなる。


ゼミナールで支柱となる書は、ちょうど1年前に出版した『AI時代に生きる数学力の鍛え方』で、暗記でなく理解の学びの意義と数多くの応用例を紹介している。

その書でも触れたことであるが、理解するからこそ応用力が育まれることを示す一例として、曜日に関する性質を説明しよう。


たとえば2021年と2022年は平年なので、365日ある。

そして1週間は7日なので、365÷7=52あまり1と計算してあまり1に注目すれば、「今年と来年の同一日を比べると、来年は曜日に関して1日進んでいる」ことになる。


この結論だけを暗記するのでなく、この理由を理解しておくと、「平年では1月から9月までの13日には必ず金曜日がある」ことが以下のように考えてわかる。

1月は31日で、31÷7=4あまり3なので、2月13日は1月13日から曜日で3日進む。


以下、同様に考えて、9月13日は8月13日から曜日で3日進む。

このように考えると、1月から9月までの13日には全部の曜日が現れることがわかる。

 

・数学を理解するスピードには個人差がある


余談であるが、40年間近く親交のある理容師・美容師として活躍しているスタイリストの方に上の話をしたところ、次のことを言われたことが忘れられない。


「髪のカットの仕方だけ覚えていても(理容師・美容師の)資格はとれます。しかし、『なぜ、そのようにカットするのか』という理由を理解しているか否かによって、その後の発展に大きな違いがありますよ」。


筆者は90年代半ばごろに数学から数学教育に軸足を移し、その後いろいろな書や記事によって数学教育に関する提言を出してきたが、70歳という年齢も近いことから、大きな提言はそろそろ慎重に述べるべきかもしれない。


しかし、本稿の最後にぜひ訴えたいことがある。

それは、算数・数学の内容を理解することには、個人差がかなり大きい。


ゆっくり理解しても何ら問題はないはずだ。それにもかかわらず、ゆっくり理解する生徒には、早々と暗記だけの学びを仕向ける教育が蔓延していることは残念でならない。

日本の将来を考えて、きめ細かい算数・数学教育ができるように対策を講じてもらいたい。


~~~
「数学嫌い」の人は暗記教育の犠牲者といえる理由~公式ばかりを覚えて本当の楽しさを知らない~
東洋経済 2021/12/15 芳沢 光雄 : 桜美林大学リベラルアーツ学群教授
https://toyokeizai.net/articles/-/475479

 

 

 

 

 


■暗記力競争の勝者が、リーダーになる悲劇~「丸暗記教育」を改めなければ、日本は自滅する~

日経ビジネス 2017.1.26

https://business.nikkei.com/atcl/opinion/16/122700036/011800004/


~~~


・「暗記」は勉強ではない


今年も受験シーズンたけなわ。

しかし、それもすぐに落ち着き、まもなく暖かくなれば、新しく受験生となった学生が来年の受験に立ち向かうことになります。


私の教師生活もアニメ「ど根性ガエル」の町田先生(「教師生活25年」のセリフで有名な登場人物)を越え、毎年毎年この姿を見てまいりましたが、目を輝かせて受験に臨まんとする学生を見ていると、かえって哀しい気持ちになることがあります。

彼ら学生の多くが、“勉強”の何たるかをまったく知らないためです。


彼らが「勉強」だと思っている行為は「一に暗記、二に暗記、三四がなくて五に暗記!」というものです。

もはや「暗記作業、イコール勉強」と信じて疑わない。

しかし真実は、「暗記作業は勉強とはまったく関係ない行為」なのです。

 

・「自分は頭がいい」と勘違いした者たちが、この国を動かす


私の新学期初の講義では、講義時間の大半を削って「勉強とは何か」について話さなければなりませんが、「暗記は勉強とは違うんだよ」と諭そうものなら「暗記せずにどうやって歴史を勉強する!?」と反論される有様で、もはやその病、膏肓(こうこう)に入ると言ってよい状態。


これから“最高学府”に臨もうかという者たちがこの惨状です。

こんな「勉強」の“べ”の字も知らぬ者たちが、一年後、一流大学に入れば「自分は頭がいい」と勘違いして、一流企業の社員や官僚となってこの国を動かしていくことになります。


現代日本の政治・経済・社会の惨状の根本のひとつはここにもあるでしょう。

 

・連綿と続いてきた「丸暗記教育」


しかし、それも致し方ない側面もあります。

小中高と彼らが師事してきた教師たちが誰ひとりとして「勉強」を知らず、「丸暗記教育」を彼らに徹底的に叩き込んできたからです。


彼ら丸暗記主義教師こそが“諸悪の根源”ですが、彼らもまたその先代の「勉強を知らぬ教師」たちから“丸暗記”を徹底的に叩き込まれ、勉強の何たるかも知らないまま大学に行き、教職に就いて、自分が教わったとおりに教えているだけの“被害者”ともいえます。

そして、その先代の教師らもまた、その先々代の教師から…と負のスパイラルが延々とつづいているのです。


では、これを歴史的に遡っていくと、どこに辿りつくのでしょうか。

 

・「富国強兵」に不可欠だった義務教育


じつは、今から150年ほど前の明治維新にまで遡ります。

当時の日本は、「鎖国したい」と固く門を閉ざしていたにもかかわらず、そこに土足で上がり込んできたアメリカに無理やり門をこじ開けられてしまいました。


そのため明治政府は、好むと好まざるとにかかわらず「富国強兵」の道へと突き進まざるを得ない ── という政治情勢に陥ります。

しかし、近代軍を動かすためには、何はともあれ「義務教育」を実施しなければなりません。


もはや、幕府時代のような「武士が刀や槍を振り回して敵味方入り乱れて戦う」時代ではなくなったためです。


近代軍は、陸軍なら一糸乱れぬ方陣(兵士を方形に並べた陣の配置)を組んで進み、前線では重火器を自在に操り、作戦の意図をよく理解して散兵でも密集でも円滑な作戦行動ができねばならず、海軍なら巨大な戦艦を提督の意のままに艦隊運動させなければなりませんが、こうしたことは一兵卒のひとりひとりに至るまで“一定の教育レベル”に達していなければ不可能なことです。

 

・教育は「国民のため」ではなく「兵隊を育てるため」だった


国民が無学で文字も読めないようであれば、方陣も組めず、重火器は使いこなせず、散兵戦術(適当な距離に兵士を散らばらせて敵を攻撃する戦法)など夢のまた夢、戦艦はまるで思い通りに動かないどころか、事故が多発するでしょう。


よく勘違いされている方がいらっしゃいますが、義務教育が導入されたのは「国民のため」ではありません。

このような「近代軍に役に立つ兵を養成するため」でした。


その名残として、今でも小中学校では「気をつけ!」「前へ倣え!」「回れ右!」「進め!」と隊列運動が盛んに行われ、運動会などの競技は陸兵の訓練ばかり、他にも、朝礼・生徒による一斉清掃・給食の給仕、隅から隅まで「軍隊」のやり方そのままです。


つまり「義務教育」とは、幼いころから“(子供用)軍隊”に入れ、大人になったら立派な兵隊になるための必要最小限の“教育”が施されるものだったのです。

 

日清戦争で、義務教育の成果が出た


然して。

日清戦争では、その成果が如実に出ました。

今でこそ、さも「楽勝」だったかのように伝えられている日清戦争ですが、じつは開戦当時、清軍の保有する兵器は重火器にしろ戦艦にしろ、日本よりはるかにすぐれ、さらに兵力・兵糧・弾薬すべてにおいて清国は潤沢なのに対し、日本は脆弱。


「数字」だけでみれば、まともにぶつかって勝てる相手ではありませんでした。

しかし如何せん、それらを操る清国兵たちはまともな教育が施されていない兵ばかりだったため、せっかくの最新鋭の大砲も使いこなすことができず、何十発撃とうとも当たらない。近代戦術はまったく取れず、名将への忠誠心はあっても愛国心はありませんでした。


一方、日本は貧相な装備、頼りない兵站(へいたん)ではありましたが、義務教育を受けた国民による一糸乱れぬ戦隊の動きと、心細い砲弾を確実に命中させる精度の高さで、陸に海に連戦連勝、日清戦争を勝利に導いたのです。

 

・教育は政府にとって“諸刃の剣”


このように、帝国主義時代を生き抜くための近代軍創設のためにどうしても必要だった「義務教育」。

しかし、この「教育」というのは、政府にとって“諸刃の剣”です。


近代兵器を自在に操り、上官の命令をよく理解し動くことのできる程度の“知識”は与えなければなりませんが、あまり“智恵”を与えすぎると、今度はいちいち上官に口応えし、政治に口を挟む不平分子になるからです。

兵は上官の命令に、国民は政府の意向に黙って従順に従えばよい。


そのためには、余計な“智恵”を与える教育は施さない方がよい。

洋の東西を問わず、近代以前の為政者がすべからく国民教育に無関心・否定的なのはそのためです。


しかし、教育を施さなければ、近代軍は成り立たない。

ここに為政者たちのジレンマが生まれました。

 

・「考える」「理解する」「創造する」といった能力開発は無視


そこで、義務教育には「考える」「理解する」「創造する」ということがすっぱりと取り払われ、近代軍を円滑に動かすだけの“最低限の知識”を「丸暗記」させることにします。


ものごとの本質を考えさせない教育──。

ただ上意下達式に教師が与えた知識だけを、意味もわからず、訳もわからず、前後関係も意義もわからぬまま、ただただ丸暗記させるだけの教育。


試験も「丸暗記さえしていれば答えが出せる」問題しか出さないから、丸暗記がもっとも効率よく高得点が出せてしまう。

そうした教育を徹底的に施され、高得点を取って「優秀だね」「頭いいね」と褒められてきた人間が教師となる。


そうした教師が行う“教育”がどんなものになるかは説明するまでもありません。

これが現代までつづけられてきているのです。

 

・あらゆる兵法書を諳んじていた、趙括将軍


しかし困ったことに、「丸暗記で好成績をあげた学生」など、社会に出れば「組織の歯車」となること以外、何の役にも立ちません。


いえ、「役に立たない」だけならまだマシで、自らを優秀と勘違いしてしまい、変にプライドを持ってしまった者は国家に害悪すら成します。


たとえば──。

昔、戦国時代の中国は趙(紀元前403年~紀元前228年)という国に「趙括(ちょうかつ)」という将軍がいました。


彼は、当時「名将」として名高かった趙奢(ちょうしゃ)将軍の息子にして、幼き頃よりありとあらゆる兵法書を諳(そら)んじ、長じては名将の父ですら戦術論で論破するほどに成長します。

したがって、まだ若輩ゆえに「実績」こそなかったものの、すでに各方面に“兵法の天才”とすでに名声を轟かせていました。


ちょうどそこに隣国の秦が攻めてきたため、趙王は彼を総大将としてこれを迎え討つことにします。

ところが、予想に反して趙軍は秦軍を前にして惨敗してしまいます(長平の戦、紀元前260年)。


ほとんど趙国の全軍に近い45万もの兵を失う大失態を演じ、趙国は立ち直れないほどの大打撃を蒙ることになったものでした。

 

・丸暗記の知識だけで、臨機応変な対応ができなかった


時代が降り、楚漢戦争(紀元前206年~紀元前202年)のころ、韓信(中国秦末から前漢初期にかけての武将)が蕭何(しょうか、秦末から前漢初期にかけての政治家)の目に留まったとき、蕭何は韓信を試そうと訊ねたことがあります。


「戦国の世、趙の国に“兵法の天才”と謳われた趙括将軍がいたことはご存知であろう。だが彼は長平の戦で秦軍に大敗し、趙滅亡の原因を作った。君に問おう。“兵法の天才”たる彼がなぜそのような為体(ていたらく)になったと思うか?」


韓信は悠然と答えます。

── あれは、趙括が兵法書の文字面だけを丸暗記していたからです。


兵法書に書かれてあることはあくまで原則・一般論であって、兵法というものは実戦におけるさまざまな状況などによって臨機応変に対応していかなければならぬもの。

それを理解せず、兵法書の言葉通りに実践したため敗れたのです。

 

・自らを「優秀」と思い込んでいる「現代版趙括将軍」


この韓信の言葉の「兵法書」を「教科書」と読み替えると、現代日本をよく象徴しています。

「丸暗記で得た高得点」など、社会に出れば何の役に立たないことを自覚できず、自らを「優秀」と思い込んで社会や国家に仇なす「現代版趙括将軍」は今の日本にはたいへん多いからです。


じつは、趙括の父親の趙奢将軍はこのことに気づいており、息子に論破されたあと、妻にこう言っています。

── あれも口だけは達者になりおった。


さしものわしも敵わぬほどだ。

じゃが、そのじつ何もわかっておらぬ。


将来あの子が将軍になったら、かならずや我が国を亡ぼすことになるぞ。

現代日本の「趙括」たちが日本を亡ぼすことがなきよう祈るばかりです。

 

・もはや“時代の遺物”となった丸暗記教育


それもこれも、諸悪の根源は「丸暗記教育」です。

その昔、“社会・国家の歯車的人材”を大量に必要とした帝国主義時代には、こうした丸暗記教育が有効だったかもしれません。


しかし、その帝国主義時代も今や遠い“過去の遺物”と化した現代、そうした前時代の要請から生まれた「丸暗記教育」もまた、歴史的役割を終えたと言えましょう。


そもそも丸暗記教育は、「思考力」「想像力」「洞察力」などに富んだ本当にすぐれた人材の才を潰し、「暗記」しかできない、思考力や想像力などに乏しい人間が高得点をとりやすいシステムです。


まともな教育というものは、すぐれた才の根本にある「理解」を高めることが基本であって、「丸暗記」は、理解力の乏しい子に「どうしても理解できないなら、取りあえずそういうもんだと思って暗記しておくこと」という“逃げ道”として用意される程度のものにすぎません。


いまや21世紀に入り、「丸暗記教育」も新時代にそぐわない古い教育制度となり、教育改革が必須であることは明らかです。

それを踏まえ、ついに2020年からは、予測困難な時代を生きるために必要な「思考力」を基盤とした抜本的な教育改革が施されることになっています。

 

・新時代を生き残る資格とは


時代が移り変われば、それに合わせて制度やシステムも生まれ変わらなければなりません。

それができる者たちだけが新時代を生き抜く資格を与えられ、それができない者は亡んでいく。


「人類の歴史はそれを繰り返しているだけ」です。

教育改革が失敗に終わるなら、恐竜が環境の変化についていけずに亡びたように、日本も亡びへと向かっていくことでしょう。


それは国家のみならず企業も同じ。

現在、古い価値観を引きずった昭和型の企業がつぎつぎと傾き、臨機応変に変化できる平成型の新しい企業が躍進しているのは、時代が大きく移り変わっていることを意味しています。


この新時代の波に掻き消されないために、“旧時代”に活躍したすべての企業にも、「新時代に生き残るための抜本的改革」が必要とされています。

それができない企業は、やはり亡びていくことになるでしょう。


~~~
暗記力競争の勝者が、リーダーになる悲劇~「丸暗記教育」を改めなければ、日本は自滅する~
日経ビジネス 2017.1.26
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/16/122700036/011800004/

 

 

 

 


■『RADWIMPS - 正解』

作詞:野田洋次郎
作曲:野田洋次郎


~~~


この先に出会うどんな友とも 分かち合えない秘密を共にした

それなのにたったひと言の 「ごめんね」だけ やけに遠くて言えなかったり


明日も会うのになぜか僕らは 眠い眼こすり 夜通しバカ話

明くる日 案の定 机並べて居眠りして 怒られてるのに笑えてきて


理屈に合わないことを どれだけやれるかが青春だとでも

どこかで僕ら思っていたのかな


あぁ 答えがある問いばかりを 教わってきたよ そのせいだろうか

僕たちが知りたかったのは いつも正解などまだ銀河にもない


一番大切な君と 仲直りの仕方

大好きなあの子の 心の振り向かせ方

なに一つ見えない 僕らの未来だから


答えがすでにある 問いなんかに用などはない


これまで出逢ったどんな友とも 違う君に見つけてもらった

自分をはじめて好きになれたの 分かるはずない 君に分かるはずもないでしょう


並んで歩けど どこかで追い続けていた 君の背中

明日からは もうそこにはない


あぁ 答えがある問いばかりを 教わってきたよ そのせいだろうか

僕たちが知りたかったのは いつも正解など大人も知らない


喜びが溢れて止まらない 夜の眠り方

悔しさで滲んだ 心の傷の治し方

傷ついた友の 励まし方


あなたとはじめて怒鳴り合った日 あとで聞いたよ 君は笑っていたと

想いの伝え方がわからない 僕の心 君は無理矢理こじ開けたの


あぁ 答えがある問いばかりを 教わってきたよ だけど明日からは

僕だけの正解をいざ 探しにゆくんだ また逢う日まで


次の空欄に当てはまる言葉を

書き入れなさい ここでの最後の問い


「君のいない 明日からの日々を

僕は/私は きっと □□□□□□□□□□□□□□□□□□」


制限時間は あなたのこれからの人生

解答用紙は あなたのこれからの人生

答え合わせの 時に私はもういない

だから 採点基準は あなたのこれからの人生


「よーい、はじめ」


~~~
RADWIMPS - 正解』