■香港が英国に奪われた「麻薬」をめぐる戦い[アヘン戦争]を4コマ解説
~そもそもから考えよう!香港問題~
livedoorニュース 2020年2月7日
https://news.livedoor.com/article/detail/17829846/
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社会主義の中国にあって「一国二制度」の下、香港は資本主義はじめ「高度な自治」を認められています。
香港は1997年7月に英国から返還されるまで、およそ150年間にわたり英国の植民地支配を受けていました。
ではなぜ、そもそも香港は英国の植民地になったのでしょうか?
きっかけになったのは、「アヘン」という麻薬の密輸。
19世紀なかばの「アヘン戦争」。
アヘン戦争(アヘンせんそう)
清末,イギリスのアヘン密輸に端を発した,イギリスの中国に対する最初の侵略戦争。
17世紀末に外国貿易が開始されて以来,茶,生糸(きいと)などの輸出によって中国へは多額の銀が流入し続けた。
この銀の流入が中国の経済繁栄を支える一要因になっていたが,18世紀末頃からインド産アヘンの輸入が盛んになるにしたがって,銀の流入が減少した。
1830年代以後は毎年大量の銀が中国から流出したから,国内経済は深刻な不況に陥り,国家財政も危機に瀕した。
清朝は1796年にアヘンの輸入および吸飲を禁止して以来,頻繁に禁令を繰り返したが,広東の地方官や,軍隊の保護または黙認のもとに密輸は半ば公然と行われていた。
そこで清朝は,実行力に富み熱心な禁煙論者であった林則徐(りんそくじょ)を起用して欽差(きんさ)大臣に任じ,広東に派遣してアヘン密輸の取締りを命じた。
林は1839年3月,イギリス領事および英米のアヘン商人を商館に監禁して,所有アヘンの引渡しを強要し,2万余箱を没収して廃棄し,アヘン厳禁の方針を明示した。
この処置を不当としたイギリスは,この機会に中国との間の外交貿易上の懸案を一挙に解決すべく,翌40年遠征軍を派遣した。
イギリス全権エリオットは天津に迫って清朝に要求をつきつけたのち,広東で交渉を行い,ついに武力行使にまで至ったが,結局条約の締結に失敗して帰国した。
後任の全権ヘンリ・ポティンジャーは,41年7月から厦門(アモイ),舟山(しゅうざん),寧波(ニンポー)を占領し,翌42年に乍浦(チャップー),上海,鎮江(ちんこう)を攻め落として南京に迫ったので,清朝はついに屈服し8月29日南京条約に調印した。
この条約によって,外交関係の改善,開港場の追加,アヘン賠償金の支払いなどに関するイギリスの要求は全面的に承認された。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
・砲艦外交(ほうかんがいこう)
gun-boat diplomacy 大国が海軍力による威嚇(いかく)の助けをかりて,小国に対して自己の権益を押しつける外交手段。
アヘン戦争などに際してイギリスが中国に行ったのがその典型的な例であるが,帝国主義時代にはいずれの列強もこの手段に訴えることが多かった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
・南京条約(ナンキンじょうやく)
江寧(こうねい)条約ともいう。
アヘン戦争の結果,イギリスと清国との間で締結された修好通商条約。
1842年8月29日,南京でイギリス全権ポティンジャーと,清国全権耆英(きえい),伊里布(イリフ)によって調印された。
この条約で清国は広州,福州,厦門(アモイ),寧波(ニンポー),上海の五つの港の開港,香港の割譲,1839年に林則徐(りんそくじょ)が没収したアヘンの原価600万両の補償,特許商人(公行(こうこう))制度の廃止,イギリス側の軍事費1200万両の賠償,両国の国交は対等を原則とすることなどを認めた。
43年6月,本条約が批准されると,これにもとづいて五口(港)通商章程(6月26日調印),虎門寨(こもんさい)追加条約(10月8日調印)が追加され,領事裁判権,最恵国待遇条款・関税・通過税に関する協定など,清国に不利な条項が一層明確に規定され,清国と列国との不平等条約の発端になった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)香港(ホンコン)
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香港が英国に奪われた「麻薬」をめぐる戦い[アヘン戦争]を4コマ解説~そもそもから考えよう!香港問題~
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■阿片戦争(アヘンせんそう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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・阿片戦争
阿片戦争(アヘンせんそう、中: 鴉片戰爭、第一次鴉片戰爭、英: First Opium War)は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。
イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。
アヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。
イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。
なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。
・戦争に至った経緯
イギリス東インド会社は1773年にベンガル阿片の専売権を獲得しており、ついで1797年にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は中国への組織的な阿片売り込みを開始していた。
北京政府は阿片貿易を禁止していたが、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、阿片貿易は拡大していく一方だった。
1823年には阿片がインド綿花に代わって中国向け輸出の最大の商品となっている。
広東貿易の枠外での阿片貿易の拡大は、広東貿易制度の崩壊につながることとなる。
・イギリスの対応・紛糾
1839年3月に広東に着任した林則徐による一連の阿片取り締まりがはじまると、エリオットはイギリス商人の所持する阿片の引き渡しの要求には応じたが、誓約書の提出は拒否し、5月24日には広東在住の全イギリス人を連れてマカオに退去した。
エリオットは、全ての自国商人に対し、清国当局へのアヘン禁絶誓約書の提出を禁じ続けていたが、林則徐ら清国側は、むしろ誓約書提出の上でアヘン以外の通常の商業活動を行うことを当初から勧奨しており、イギリス商人の中でもアヘンに関わっていない者にはエリオットへの不満が高まっていた。
・戦争勃発
1840年8月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社所有の武装汽船4隻、陸軍兵士4,000人が中国に到着した。
首脳陣が交代したイギリス軍は、本国の方針により軍事行動を再開した。イギリス艦隊は廈門、舟山列島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧していった。
・終戦後の推移
1842年8月29日、両国は南京条約に調印し、阿片戦争(第一次阿片戦争)は終結した。
阿片戦争以前、清国は広東(広州)、福建(厦門)、浙江(寧波)に海関を置き、外国との海上貿易の拠点として管理貿易(公行制度)を実施していた。
南京条約では公行制度(一部の貿易商による独占貿易)を廃止し自由貿易制に改め、従来の3港に福州、上海を加えた5港を自由貿易港と定めた。
加えて本条約ではイギリスへの多額の賠償金の支払と香港の割譲が定められた。
また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。
このイギリスと清国との不平等条約の他に、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結ばれている。
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■阿片戦争(アヘンせんそう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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