■日本にルーツがあるだけで、強制収容所に送られたアメリカ・日系人の強制収容から80年
FNNプライムオンライン 2022年2月28日 益野智行
https://www.fnn.jp/articles/-/322116
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アメリカで、日系人12万人以上が強制収容所に送られることとなった「大統領令9066号」が出されてから、2022年2月で80年を迎えた。
強制収容に翻弄された日系人の人々は何を思い、どう行動したのか。当時の状況を聞いた。
・収穫前のイチゴを残し、一家は収容所へ送られた
野崎京子さん:
「トランクを2つ持って収容所に入ったんですよ。4人家族の物をトランク2つに入れて。大変だったと思います・・」
京都産業大学の名誉教授・野崎京子さん(82)はアメリカで生まれ育った日系3世。研究者として、自身や家族が経験した強制収容の歴史を大学の講義や執筆活動で伝えている。
カリフォルニア州でイチゴ農家を営んでいた野崎さん一家の生活は80年前、戦争によって一変し、わずかな荷物だけを持って自宅を追われた。
野崎京子さん:
「1日に3時間くらいしか寝なくて、頭にライトをくくりつけて夜中でも収穫をして、本当に大変な思いをしてイチゴを作っていました。それなのに、イチゴの香りがする中それを放り出して収容されたんですよね。両親はさぞや無念だったろうなと思います」
・日本にルーツがあるだけで「敵性外国人」とみなされた
1941年12月の真珠湾攻撃後、日米は太平洋戦争に突入。
そして2カ月後の1942年2月19日、当時のルーズベルト大統領が署名した「大統領令9066号」によって、西海岸に住む日系人12万人以上が自宅を追われ、10カ所の強制収容所へ送られた。
そのほとんどは、アメリカで生まれ、アメリカ国籍を持つ人たちだった。
「日本にルーツがあるだけで危険な人物だ」という、人種差別的な偏見によるものだった
カリフォルニア州北部に作られた、ツールレイク強制収容所。乾燥した土地が延々と広がり、冬は気温が氷点下まで下がる。
ここには多い時には約1万9000人の日系人が収容された。
学校などの施設はあったが、収容所の敷地は鉄条網で囲まれ、監視塔からは武装した兵士が常に目を光らせていた。
厳しい気候の中、人々は木材を組み合わせた粗末なバラックでの生活を強いられた。
10カ所の強制収容所の中でも、監視体制が特に厳しかったツールレイクでは、人々は敷地の外に出ることは許されなかった。
また、収容者のうち「親日」的な行動を取ったとみなされた人を収容する特別な留置施設まであった
ツールレイク強制収容所跡を管理している国立公園局の担当者:
「この留置施設に入れられたのは犯罪者や悪人だけだと思われがちですが、そうではありません。家族がいる普通の人、自分や家族に対する仕打ちにただ怒っている人たちでした」
実はこの収容所に送られた人たちには多くの場合、ある共通点があった。
アメリカへの忠誠を問う質問に「NO」を突き付けていたのだ。
・忠誠を問う質問書
自宅を追われ、10カ所の収容所に入れられた日系人たち。
そこに追い打ちをかけたのが、アメリカ政府から届いた「質問書」だった。
その人を収容所の外に出すことが出来るのかなど、質問書には様々な狙いがあったとされるが、その中でも以下の2問が、日系人たちを激しく動揺させることになった。
【質問書】
「アメリカ軍に入隊する意思があるか?」
「天皇への忠誠を捨てるか?」
アメリカへの忠誠を問うこれらの質問に「NO」と答えた人の多くは、その時にいた収容所から、ツールレイクへと移された。
野崎さんの父・力(つとむ)さんもその1人だった。
「Yes」と書けば日本にいる親族がどうなるか分からない、そう考えた末の苦渋の選択だった。
その上で「アメリカと敵対するつもりはない」と書き加えたものの、一家はツールレイクへ移された。
その後、力さんだけがさらに「抑留所」と呼ばれる施設へ送られ、家族は離ればなれで暮らすことを余儀なくされた。
野崎京子さん:
「父が一番言いたかったことは『こういうことは収容所に入れる前に聞くべきだ』ということなんです。収容所に入れてしまって自由も奪い、アメリカ人としての権利を全て否定した後に『アメリカ人として戦え』なんて、よく言えたなと」
・野崎さんの父が「NO」と答えた質問書
戦後、アメリカ政府が公式に謝罪したのは40年以上経った1988年。
当時のレーガン大統領が「強制収容は人種差別による重大な過ちだった」と認め、1人当たり2万ドルの補償金が支払われることになった。
しかし、新型コロナウイルスの広がり以降、トランプ前大統領が人種対立をあおるような発言をしたことや、社会不安などの影響でアジア系住民へのヘイトクライムが急増している。
「過ちの歴史」は今も様々な形で繰り返されている。
カリフォルニア州・ロサンゼルス中心部に「全米日系人博物館」という博物館がある。
ここには約15万点の資料や写真が所蔵され、日系人の移民や強制収容の歴史を伝えている。
取材した2月のある日は、地元の中学生たちが見学に訪れていた。
博物館を見学した中学生:
「強制収容はとても悪いことだと思います。二度と起こってほしくないと思いました」
博物館を見学した中学生:
「自分の家族もアメリカに移民として来たので共感出来ました。他の文化や他の人種の人たちのことを知ることが出来て、とても興味を持ちました」
この博物館は、強制収容を経験した日系人たちが中心となって寄付を集め、30年前に設立された。
その一人、日系3世のマサコ・ムラカミさん(87)も、9歳からの2年間、ツールレイクの強制収容所で暮らしていた。
ムラカミさんの父親はアメリカへの忠誠を問う質問書に「No」と答えたが、戦争が終わった後もそのことについて、話そうとしなかったという。
マサコ・ムラカミさん:
「戦後、日系人の間では『あなたはどこの収容所にいたの?』というのがお決まりの会話でした。でもツールレイクにいた人たちは、他の人たちに見下されると思って話したがらなかったんです。私の両親が話してくれたのは、父が亡くなる直前になってからでした。その時に聞いた話では、父はアメリカ政府に対してとても怒っていました。私たちはみんなアメリカ市民なのに、強制収容所に入れられたからです。だからこそ父は質問書に“NO”と答えたと言っていました」
博物館の設立に力を尽くしたムラカミさんは、オープン後もボランティアスタッフとして運営を支えてきた。
強制収容の歴史は、アメリカ国内でもまだ十分に知られていないと感じている。
マサコ・ムラカミさん:
「二度と同じ事を繰り返さないために、過去に何が起きていたのかを知る必要があります。だからこそ、この博物館があることがとても大切なのです。ロサンゼルスに来た人には是非立ち寄って欲しいと思っています」
日本にルーツがあるだけで「敵」とみなされた、日系人の強制収容から80年。
京都市に住む日系3世の野崎さんは、強い危機感から今も当事者として、研究者として過ちの歴史を伝え続けている。
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日本にルーツがあるだけで、強制収容所に送られたアメリカ・日系人の強制収容から80年
FNNプライムオンライン 2022年2月28日 益野智行
https://www.fnn.jp/articles/-/322116
■日系人強制収容から80年 「天皇への忠誠を捨てるか?」迫られたアメリカへの忠誠 ルーツだけで敵とみなされた過ちの歴史
2022/3/1 関西テレビ放送
https://www.ktv.jp/news/feature/220228/
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80年前の1942年、日本との戦争が激化していたアメリカで、「ルーツが日本」というだけで、12万人以上の日系人が強制収容されました。
その歴史を語り継ぐ人たちが、今抱く「危機感」を取材しました。
・わずかな荷物で自宅を追われ…日系3世の記憶
京都市に住む野崎京子さん(82)は、アメリカで生まれ育った日系3世です。
カリフォルニア州でイチゴ農家を営んでいた野崎さん一家の生活は80年前(1942年)、戦争によって一変し、わずかな荷物だけを持って自宅を追われました。
【野崎さん】
「これ(カバン)を2つ持って収容所に入ったんです」
――Q:.当時4人家族の物をここに?
「そうです、これ2つに入れて。大変だったと思います」
【野崎さん】
「本当に大変な思いをしてイチゴを作って」
「1日に3時間くらいしか寝なくて、自分の頭にフラッシュライトを括り付けて夜中でも収穫をして、イチゴの香りがする中で、4月ですね、それを放り出して収容されたんですよね。さぞや無念だったろうなと思って」
・アメリカ国籍なのに…日本にルーツあるだけで収容所に
1941年12月、真珠湾攻撃で日米は太平洋戦争に突入し、アメリカに住む日系人たちは、「敵性外国人」とみなされました。
そして2カ月後の1942年2月19日、当時のルーズベルト大統領が署名した「大統領令」によって、西海岸に住む日系人12万人以上が自宅を追われ、10カ所の強制収容所へと送られたのです。
そのほとんどは、アメリカで生まれ、アメリカ国籍を持つ人たち。
「日本にルーツがあるだけで危険な人物だ」という、人種差別的な憶測によるものでした。
【記者リポート】
「この辺りは草が枯れて乾燥した土地が延々と広がっています。この時期は気温が氷点下まで下がります。金網の向こうに、かつて日系の人たちが暮らした収容所があったということです」
ここには、多い時にはおよそ1万9000人の日系人が収容されました。
学校などの施設は整備されていましたが、収容所の敷地は鉄条網で囲まれ、監視塔からは武装した兵士が常に目を光らせていました。
【記者リポート】
「これが実際に人々が実際に暮らしていたバラックです。壁も天井もすべて木材を組み合わせただけの非常に簡素な作りとなっています」
厳しい気象条件の中、人々は粗末なバラックでの生活を強いられました。
収容所の中でも特に監視体制が厳しいツールレイクでは敷地の外に出ることは許されず、「親日」ととられる行動をとった人を収容する留置施設までありました。
【ツールレイク強制収容所跡を管理している国立公園局の担当者】
「ここは刑務所であり柵の中にあったので入れられたのは、犯罪者や悪人だけだと思われがちですが、そうではありません。家族がいる普通の人、自分や家族に対する仕打ちにただ怒っている人たちだったのです」
・「天皇への忠誠を捨てるか」NOと答えた父
実はこの収容所に送られた人たちには多くの場合、共通点がありました。
アメリカへの忠誠を問う質問に「NO」を突き付けていたのです。
各地の収容所にいる日系人たちにアメリカ政府が送った「質問書」。
様々な狙いがあったとされ、「天皇への忠誠を捨てるか?」「アメリカ軍に入隊する意思があるか?」といった質問が並びます。
アメリカへの忠誠を問うこれらの質問に、「NO」と答えた多くの人は、各地の収容所からツールレイク収容所へと移されました。
野崎さんの父、力(つとむ)さんもその1人でした。
「Yes」と書けば日本にいる親族がどうなるか分からない、そう考えた末の苦渋の選択でした。
その上で「アメリカと敵対するつもりはない」と書き加えたものの、一家はツールレイクへ移されます。
その後、力さんだけが「抑留所」と呼ばれる施設へ送られ、家族は離ればなれで暮らすことを余儀なくされたのです。
【野崎さん】
「一番彼(父)が言いたかったことは、これを、キャンプ(収容所)に入れる前にこういうことを聞くべきだ、と。入れてしまって自由も奪い、アメリカ人としての権利をすべて否定した後に、アメリカ人として戦えなんて、よく言えたなと」
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日系人強制収容から80年 「天皇への忠誠を捨てるか?」迫られたアメリカへの忠誠 ルーツだけで敵とみなされた過ちの歴史
2022/3/1 関西テレビ放送
https://www.ktv.jp/news/feature/220228/
■大東亜戦争は日本が勝った 英国人ジャーナリストヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」
・世界に冠たる日本の歴史
・侵略され侵略するイギリスの歴史
・白人キリスト教徒による太平洋侵略
・アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」
著者:ヘンリー・スコット・ストークス, 藤田裕行
発売日:2017年04月
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■『アメリカ人だから言えた 戦後日本教育の不都合な真実』 日本人が国益損なう行動に走る理由
・日本では教えられない「国際社会の常識」
・自立心を持った人間を育てる「七カ条」
著者:ケント・ギルバート
発売日:2018年06月11日
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■『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(ケント・S.ギルバート)
・わが祖国アメリカよ、いつまで「反日プロパガンダ」を続けるのか
・わが愛する日本よ、そろそろ「洗脳」から解放されよう
著者:ケント・S.ギルバート
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発売日:2015年05月25日
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■日本人はなぜ自虐的になったのか―占領とWGIP―
「日本人に罪悪感を植え付け、原爆投下等、アメリカによる戦争犯罪への反発をなくすこと。彼らはメディアを支配し、法や制度を思うままに変え、時に天皇までも利用」
著者:有馬 哲夫
出版社:新潮社
発売日:2020年07月17日
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■【ヘンリー・ストークス】人類史に輝く日本の偉業【WiLL増刊号#373】2020/12/26
WiLL増刊号
チャンネル登録者数 30.5万人
https://www.youtube.com/watch?v=x0tiJ6c1BvE