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日銀金融緩和で刷られた円の行き先が日本企業でも日本国民でもないカラクリ(Dr.苫米地 2016年9月15日TOKYO MXバラいろダンディ) https://www.youtube.com/watch?v=tvzNqO6qsGI

【江戸時代の寺子屋が理想形】「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育~宣教師・ザビエルも驚愕!江戸・寺子屋の高すぎる教育レベル~


■「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育

週刊ダイヤモンド 2020.8.10 榎本博明:心理学博士

https://diamond.jp/articles/-/245339


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今、教育の現場では、あらゆる学習において、社会に出てからの実用性を重視する実学志向が強まっている。

だが、基礎知識や教養、物事を深く考える習慣を身につけさせないのであれば、先の読めない変化の激しい時代を柔軟に生きることは困難だ。

『教育現場は困ってる――薄っぺらな大人をつくる実学志向』(平凡社新書)の著者・榎本博明氏は、学校教育の在り方に警鐘を鳴らす。

今回はシリーズ5回目で、「実学重視に走る教育の危うさ」について問題提起する。

 

・小説・評論から実用文にシフトする国語教育


学校の勉強は社会に出てから何の役にも立たない、もっと役に立つ内容を教えるべきだ。

そんな声が強まり、学校教育が実用性を重視する方向にどこまでも進んでいくことに対して、榎本氏は教育の危機を感じるとしている。

このような教育改革の動きに対して、2019年1月、榎本氏も加盟している日本文藝家協会により、「高校・大学接続『国語』改革についての声明」が出された。

これは、2022年度から施行される新学習指導要領による国語科の大幅な改定に対する危機感の表明である。

簡単に説明すると、「大学入試および高等学校指導要領の『国語』改革」において、高校で文学の勉強をせずに、もっぱら実用文に重きを置いた教育をすることになったのである。

日本文藝家協会出久根達郎理事長は、「文科省は本気でそのような教科書を作るようなので、今のうちに大きな反対ののろしをあげなければいけない。駐車場の契約書などの実用文が正しく読める教育が必要で文学は無駄であるという考えのようだ」と懸念を示している。さらに「まだマスコミでも大きくは取り上げておらず、一般には周知されていないと思われるが、文部科学省の方針に大反対をしていこうと考えている」(文藝家協会ニュース2019年1月号)としている。

この声明が出されてからすでに1年以上が経過したが、このような文科省主導の教育改革の動きについては、いまだにメディアでほとんど取り上げられることがなく、多くの国民は何も知らないのではないだろうか。

 

・「国語」改革に、教育現場からも驚きの声


国語の授業で実用文の学習に重きを置くといっても、具体的にどういうことなのかわからないという人が多いかもしれないので、もう少し説明しておきたい。

2021年から「大学入学共通テスト」が実施され、それに合わせて高校の国語の改革も行われることになった。

そして、この新しい大学入学共通テストのモデル問題が2017年に示された。

そこでは、国語に関しては、生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書が問題文として出題されたのである。

たとえば、架空の高校の生徒会規約を生徒たちが話し合う会話文を読ませるような問題が出題された。

これには教育現場にいる教員たちから驚きの声が上がった。

2022年度からは、このような問題を解けるようにするための国語の授業を全国の高校で行うようになるわけである。

これまで指導要領をいくらいじっても高校も教科書会社も動かなかったため、文科省は大学入試を変えることで、高校の授業や教科書を無理やり変えざるを得なくするという手段をとったのだ。

こうした動きに関して、日本文藝家協会による「高校・大学接続『国語』改革についての表明」では、次のように懸念が表明されている。

「あたかも実用文を読み、情報処理の正確さ、速さを競うための設問といった印象も受けます。この点に関しても、複数の識者たちから疑問の声が出されています。
このように、とくに高校と大学と接続した教育現場でこの数年で起きることはおそらく戦後最大といってもいい大改革であり、日本の将来にとって大変に重要な問題をはらんだ喫緊の課題です」(文藝家協会ニュース2019年1月号)

この改革により実用文中心の教科書が作成されることになる。

手元にある現行の「現代文」の教科書には夏目漱石芥川龍之介宮沢賢治中島敦など文豪の作品が載っているが、「現代文」が「論理国語」(実用文中心)と「文学国語」(文学中心)に分かれ、そのいずれかを学ぶことになる。

そうした文豪たちの作品は当然のことながら「文学国語」に入るはずだ。

入試動向に合わせて多くの学校は「論理国語」を選ばざるを得ないだろう。

その結果、多くの学校の生徒たちは、文学でなく実用文中心の国語の教科書で学ぶことになる(形式上、文学を含む教科書も残るが、現実には入試対策の必要上、その教科書を採用する学校は少なくなることが推測される)。

これに関して、作家の三田誠広氏は、ある会議において、学力問題と絡めながら、次のように懸念を示している。

「(前略)大学入試の共通試験の問題例が出た。駐車場の契約書、レポート、統計グラフ、取扱説明書が読めるようになることが、文部科学省が考えている国語力だ」(文藝家協会ニュース2019年11月号)

「小説を読むと地頭がよくなると、進学校はみなわかっている。私立の進学校は大量の読書をさせて、議論をさせる。ところが文部科学省が考えているのは中から下、二人に一人が大学に進学する時代になり、簡単なレポートも書けない大学生がいるので、ちゃんと実用的な論理国語を学ばせる方針だ」(同)

 

・危惧される教養人と非教養人との二極化


国語の授業で、駐車場の契約書や会議の議事録の読み方、商品の取扱説明書の読み方を学ぶ――。

そんな時代がやって来るとは思いもしなかったと榎本氏は述べるが、2022年度から現実にそうなることになっている。

今の中学生や高校生、あるいは大学生の読解力が悲惨な状況にあり、かつてなら、容易に読めたであろう簡単な説明文の理解ができない者があまりに多いことは、榎本氏の著書の中で示されている。

だから実用文を学ばせるといった発想になっているのだろうが、それはわざわざ中学や高校の授業でやるべきことなのだろうか。

進学校の生徒たちは本をよく読み、読解力を身につけているため、実用文の勉強など改めてやる必要はないし、新しい学習指導要領に切り替わっても、私立進学校の生徒たちは、国語の授業や自分自身の趣味あるいは学習として小説も評論も積極的に読むだろう。

一方で、もともと本を読まず、読解力の乏しい生徒たちは、国語の授業で実用文の読み方を学ぶようになる。

先述のように現行の「現代文」から「論理国語」へという移行により、これまでは教科書で著名な小説や評論といった実用文でない文章に触れることができたのだが、今後は文学作品に触れることがほとんどない生徒たちが大量に出てくることが予想される。

これにより、文学や評論に親しむ教養人と実用文しか読まない非教養人の二極化が進むに違いない。

知的階層形成を公教育においても進めていこうとする政策に、平等な扱いを好む日本国民は果たして納得できるのだろうか。

このように大きな問題をはらむ教育改革に国民はしっかりと目を向け、その妥当性について本気で考えてみるべきではないだろうか。

これは、今後の子どもや若者の人生を大きく左右するような出来事なのである。


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「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育
週刊ダイヤモンド 2020.8.10 榎本博明:心理学博士
https://diamond.jp/articles/-/245339

 

 

 

 

■『宣教師・ザビエルも驚愕!江戸・寺子屋の高すぎる教育レベル』(著:山中俊之 幻冬舎 2020.8.7)

https://gentosha-go.com/articles/-/27749


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・庶民の「教育レベル」が高かった江戸時代


知日派の外国人と議論すると、明治維新における改革を高く評価する人がたくさんいることがわかります。

身分制の廃止、信教の自由、議会制の開始、憲法制定。確かに明治維新後の改革によって現在に繋がる近代日本が始まったと考えられる根拠はあります。

しかし、明治以降の発展の土壌は江戸時代にありました。


特に、江戸時代の庶民の教育レベルの高さは特筆すべきものでした。


戦国時代の1549年に日本にやってきた、カトリック教会の司祭で宣教師のフランシスコ=ザビエル。

彼はインドのゴアのカトリック伝道の拠点に宛てた手紙で、自身の鹿児島での経験から、日本は読み書きのできる者が多いので伝道に有利であると述べています(大石学著『江戸の教育力』)。


以前ルワンダで「日本の経済発展」について講演をした際に、江戸時代における日本の教育レベルの高さについて話をしました。

200年も前の封建時代に一般庶民の識字率が高かった事実は大変に驚きをもって受けとめられました。


江戸時代には、武士が城下町に集められ、武士が居住しなくなった農村の農民とは文字によるやり取りを行うようになりました。

農村にも読み書きの能力が求められるようになったのです。

寺子屋が広がり、庶民も読み書き、算盤を学ぶようになりました。


「身分に囚(とら)われた封建時代」というネガティブな観点からのみ見ると、江戸時代については大きく見誤ってしまいます。

 

・学問によって、身分を飛び越えられるようになった


江戸時代になると、士農工商という身分制が生まれました。

誤解してはいけないのは、これらの身分は必ずしも固定化されたものではなかったことです。


女性の場合は結婚により身分が変動することがありました。

また、例えば、上流武家の出身でなくても側室とは別の形で大奥に入って出世し、江戸幕府13代将軍徳川家定・14代家茂時代の将軍付御年寄に任じられた瀧山(たきやま)のように大名クラスの男性らと対等に話をする女性もいたのです。


男性の場合でも、例外的ではありますが、才能があれば農民から武士へ取り立てられることもありました。

また、身分そのものは変わらなくても、同じ農民や商人階級の中で、個人の才覚で富裕になったり、貧困化したりすることもあったのです。


その経験をしたのが、相模国の農民から農政家・思想家となった二宮尊徳(にのみやそんとく)です。


尊徳の生家は、現在の神奈川県小田原市の栢山(かやま)にあります。

生家に隣接する尊徳記念館を訪れた際には、寸暇を惜しんで勉強する尊徳の展示に心を打たれました。


尊徳は、生まれた頃は比較的裕福だったのですが、5歳の頃、洪水のため家が流され、一気に貧困化しました。

両親も相次いで亡くなり、満15歳で一家を支えなくてはならなくなるのです。

その後、寝る時間も惜しむほど刻苦勉励をして得た知識と生来の才覚によって、家業の農業を再建し、一家の経済状態は大きく改善します。


この評判を聞きつけた小田原藩の家老が尊徳に火の車になった自らの家の改革を手伝ってくれるように依頼をしてきました。

さらに小田原藩主から藩の飛び地であった下野国(しもつけのくに)(現栃木県)桜町の再興を託され成功に導きます。

農民であっても、十分に成果を出した人には役割を与えるという柔軟性が江戸時代の日本にはありました。


さらに尊徳の評判は幕府にまで伝わり、幕政の改革にも関与します。


貧困に苦しんだ農民が、封建制の身分社会において幕府の中で指導的な立場にまで昇りつめる。

限られた人数ではありましたが、優秀な人には機会が与えられるという社会の流動性があったのです。


漁師出身で幕府に取り立てられて開国について助言するまでになったジョン万次郎など、学問や才覚のある者は身分にかかわらず評価されるチャンスがありました。


もっとも尊徳は身分の低さゆえ、周りの武士から軽くみられるなど、相応の苦労はしたようです。

 

寺子屋では地理・算術など理系科目を学ぶことができた


江戸時代の教育というと、よく聞かれるのは寺子屋です。


鎌倉時代までは、教育は主として貴族や武士など支配階層のためのものであり、一部の富裕層を除き農民や町人が教育の機会を得られることは稀でした。

鎌倉時代までの庶民(農民や町人)の識字率は低かったものと推定されます。


その後、室町時代になると、経済社会が発展して庶民が学ぶ機会が生まれてきました。

先述のように、16世紀半ばに来訪したフランシスコ=ザビエルは、庶民を含む日本人の教育レベルの高さに感嘆しています。


欧州では、貴族などの支配階層は別にして、庶民が文字を読めないのは当然であり、また、そもそも庶民を学校で教育しようという考えは、ほぼありませんでした。


一方、かつてより、勉学は寺で、という習慣があった日本。寺院教育と寺子屋教育は直接結びつくものではないのですが、「学ぶ場所としての寺」という古くからの習慣が江戸時代になると寺子屋という形で一般庶民にまで広がりました。


江戸時代初めは都市部で発達した寺子屋は、経済発展と社会の安定化により、17世紀末には農村部にも浸透していきました。

読み・書き・算盤に加えて、地理・算術など理系を含む多様な科目が教えられました。

貴族や富裕層が優秀な家庭教師をつけて自宅で学ぶ習慣があった欧州と違って、日本では、学ぶ場所は外でという考え方が強かったことも、教育が広く行き渡る要因となりました。


また、全国の藩では、各藩の俊英が藩校で学びました。


藩校では、四書五経(ししよごきよう)などの儒学のほか、江戸後期になると蘭学なども教えられました。

蘭学鎖国時代にも国交のあったオランダを通じて入ってきた欧州の学術や技術、文化などを学ぶ学問で、天文学など自然科学系も含まれています。

蘭学の広がりが、江戸時代の自然科学における偉人を生み出す要因にもなりました。

これが、明治以降の産業の発展につながったと考えられます。


・山中俊之
株式会社グローバルダイナミクス 代表取締役社長


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『宣教師・ザビエルも驚愕!江戸・寺子屋の高すぎる教育レベル』(著:山中俊之 幻冬舎 2020.8.7)
https://gentosha-go.com/articles/-/27749

 

 

 

 

 

■『江戸時代の寺子屋が理想形…現代の学校が担うべき機能とは?』(著:工藤勇一 幻冬舎 2019.4.24)

https://gentosha-go.com/articles/-/20112


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・今、学校に求められる機能とは?


前回(関連記事『中学校長が不登校の生徒に「学校に来なくていい」といった理由』)で、「学校に来る」こと自体は、社会の中でよりよく生きていけるようにするための一つの「手段」にすぎないとお伝えしました。

では、「手段」の一つである学校は、子どもたちがよりよく生きていくために、どのような機能を担うべきなのでしょうか。


社会では、「コミュニケーション」と「経済活動」を行うための2つのスキルが必要です。

学校はこうしたスキルをしっかりと身に付けさせていきたいものです。

特にコミュニケーション能力は、障害や発達の特性の状況に応じて、自分なりの方法を身に付けていくことが求められます。


学校の機能を単純化してみると、二つのポイントが考えられます。

教師の立場から考えれば、①何を教えて(カリキュラム)、②どう教えるか(教え方)であり、生徒の立場から考えれば、①何を学んで(カリキュラム)、②どう学ぶか(学び方)です。


このことについて考えるには、歴史をさかのぼってみるのが分かりやすいと思います。

今の学校の原型は明治維新以降に作られましたが、それよりもさらに前、江戸時代にまで戻って、教育を考えてみましょう。


江戸時代の寺子屋のカリキュラムと学ぶ方法は、とても理にかなった教育であったと私は思います。

「①カリキュラム」については、「読み」「書き」「そろばん」が中心で、まさに実社会においてコミュニケーションや経済活動に結び付いた知識・技能でした。

武士の子はもちろん、商人や職人、農民の子に至るまで、多くの寺子(子どもたち)が「読み」「書き」「そろばん」を学び、今よりもはるかに若い年齢で社会に出て、家計を助けていました。


「②教え方・学び方」については「自学と学び合い」が中心です。

教師が現在のように大勢の生徒に一斉授業で教えることはありません。

分からないことがあれば友だちに聞いたり、教えたり教えられたりしながら主体的に学んでいました。


実はこれは、世の中の営みそのものです。

つまり、社会に出てからの大人の学び方と、子どもたちの学び方は同じだったのです。

今のように一斉授業の中で一方的に情報を受け続け、ただ丸暗記するような勉強方法ではありません。

また、「これをやりなさい」「あれを勉強しなさい」と一方的に押し付けられることもありませんでした。

学びは、人に頼るものではなく、自分で分からなければ調べたり考えたり、それでも分からなければ聞くなどしました。

当時は、「対話」が当たり前だったのです。まさに「学びのスタイル」が「社会でのスタイル」なのです。


私たち大人は仕事をしていく過程で、日々多くのことを学んでいます。

学校においても同じです。

教師同士も学び合っています。

その学びの多くは、日々のちょっとした会話を通じて、経験が豊かな先生から新任教師へ「こうしたらいいよ」という方法を伝えるコミュニケーションを介して行われています。

研修などを除けば、私たちが職場で必要なスキルを、講師による一斉講義形式で座学で学ぶということはありません。

これは民間企業においても同様でしょう。

 

・学校教育は「アクティブ・ラーニング」に変えるべき


新学習指導要領では、「アクティブ・ラーニング」(主体的・対話的で深い学び)が求められています。

私は、学びは、そもそも「アクティブ・ラーニング」に変えていくべきだと考えています。

それは、人が社会で生きていくスタイルそのものが「アクティブ・ラーニング」だからです。


そもそも、「一方的な講義スタイルで、じっと座って、誰かの話を聞く」ということが世の中において当たり前ではありません。

対話し、発信し、受け取り、合意形成を行う。

そうした形で物事を解決していく。

これが社会の姿なのですから、学校においても、社会の「当たり前」を学べるようにすべきだと考えています。


カリキュラムについても、かつての藩校は地方分権で自律しており、江戸幕府にコントロールされてはいませんでした。

各藩が自らの経済活動に必要だと考えれば、各地から優れた人を招いてきて講義を行ってもらうなど、独創的で自律した学びを行っていました。

問題解決能力を日々の活動の中で高めていたのです。

これが明治維新以降、優れたリーダーを輩出した一つの理由であったとも思います。


寺子屋は私設の教育機関でしたが、就学率は非常に高く、江戸などはもちろんのこと、地方の小都市や農村部でも、多くの子どもが通っていたようです。

それは、「社会の中でよりよく生きていけるようにする」という目的に対し、寺子屋が適切な手段だったからだと思います。


江戸末期、日本の識字率は非常に高かったとも言われています。

それは、寺子屋で培われた知識・技能が日本の隅々まで浸透していたからだと思います。

そうした基盤があったからこそ、明治期の奇跡的な産業的発展ができたのでしょう。


ところが、明治維新以後、日本は西洋の学校教育制度をモデルとして、まったく新しい公教育制度が整備されました。

そこでは、教員による一斉講義形式の授業が行われ、カリキュラムも教科型へと転換しました。

その結果、実社会の営みと離れてしまい、学校へ通う子どもたちの生活実態や、学ぶ内容と意義を家族が認められないことなどがあり、しばらくの間、就学率が長く低迷することになったと聞きます。

子どもたちが学校へ行かなかったのは、明治期の学校が「社会の中でよりよく生きていける」ための手段として、適切でないと感じたからだと思われます。


近年、不登校の子どもたちの数は増加傾向にあり、そのありようも複雑化しています。

もしかすると、明治期と同じく、学校に行く意義を見い出せなくなっている子どもがいることの表れかもしれません。

 

・工藤 勇一
千代田区麹町中学校長 

1960年山形県鶴岡市生まれ。東京理科大学理学部応用数学科卒。山形県公立中学校教員、東京都公立中学校教員、東京都教育委員会、目黒区教育委員会、新宿区教育委員会教育指導課長等を経て、2014年から千代田区麹町中学校長。教育再生実行会議委員、経済産業省「ed-tech 委員」等、公職を歴任。本書が初の著作となる。


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『江戸時代の寺子屋が理想形…現代の学校が担うべき機能とは?』(著:工藤勇一 幻冬舎 2019.4.24)
https://gentosha-go.com/articles/-/20112

 

 

 

 

日本会議の影響で「道徳」に危機? 教科書には衝撃的な内容も…

AERAアエラ)2018.10.18 澤田晃宏

https://dot.asahi.com/aera/2018101700010.html?page=1


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安倍政権がこのほど組閣した新内閣を支えるのは、その多くが「日本会議」所属の議員だ。

有識者の中には、このことが日本の教育に大きく影響すると警鐘を鳴らす人もいる。


2012年の第2次安倍政権発足以降、閣僚のうち憲法改正を掲げる団体「日本会議」の国会議員懇談会に所属する議員は常に半数を超え、新内閣では20人のうち15人が、日本会議系議員だ。

初入閣の閣僚に絞れば、12人中9人。改憲シフトの「日本会議内閣」とも言えよう。


安倍晋三首相、麻生太郎財務相日本会議国会議員懇談会の特別顧問を務め、菅義偉官房長官は副会長に就いている。

日本会議の全貌』(花伝社)などの著書がある「子どもと教科書全国ネット21」代表委員の俵義文氏は話す。


自民党幹部が所属していることもあり、思想信条とは関係なく所属する議員は多い。懇談会は超党派の議連だが、9割は自民党で、その数は衆参合わせて約300人に達します」

日本会議は1997年、有力な右派団体として知られた「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が統合して発足。


憲法制定を掲げ、「国の伝統」を重視する。

伝統とは特に明治維新から戦前までを指し、戦後の日本に関しては、<経済的繁栄の陰で、かつて先人が培い伝えてきた伝統文化は軽んじられ、光輝ある歴史は忘れ去られまた汚辱され、国を守り社会公共に尽くす気概は失われ、ひたすら己の保身と愉楽だけを求める風潮が社会に蔓延し、今や国家の溶解へと向いつつある>(設立宣言から一部抜粋)とする。


俵氏は警鐘を鳴らす。

日本会議は単なる政治団体ではありません。理念や思想を支持する国会議連と連携をとり、特に安倍政権以降、着実に政策として具現化しています」


日本会議憲法改正とともに力を入れてきたのが、第1次安倍政権(06~07年)でも推し進められた「教育再生」だ。

なかでも道徳の教科化はこのときからの悲願で、教育基本法の改正を経て、今年から小学校で、来年から中学校で実施となった。


『危ない「道徳教科書」』(宝島社)を緊急出版した元文科官僚の寺脇研氏はこう危機感を話す。

自民党は12年に発表した改憲草案では、人権は生まれながらに与えられるとする天賦人権説を西欧由来として否定している」


片山さつき地方創生・女性活躍担当相の発言も、この立場だ。

寺脇氏が続ける。


「この改憲は、乱暴な言い方をすれば大日本帝国憲法下の『臣民』に戻すという考え方にもとれる。国民に主権はない。そうした人間を育てる狙いが道徳の教科書に散見されます」


例えば、小学6年の複数の教科書に掲載されている「星野君の二塁打」という話がある。

送りバントのサインを無視して二塁打を打ち、チームは勝利。


しかし監督は「犠牲の精神の必要性」を説き、「監督の指示は絶対」として星野君に出場禁止の罰を与えるという内容だ。

「必ずしも教科書を使う必要はないが、現場に道徳の専門家はおらず、先生の余裕もない。教科書を使った授業が中心になっている」(寺脇氏)


文部科学相には柴山昌彦氏が就任。就任会見で教育勅語について「道徳などに使うことができる分野は十分ある」と発言し、野党などから「戦前回帰」「憲法違反だ」と反発が出た。

発言について柴山氏は「国として検討と言ってない」と釈明したが、寺脇氏は警戒感を隠さない。


「職員への訓示では廊下ですれ違う時にあいさつをすることを徹底した。下村博文文科相の影響だという。下村氏は大臣時代、課長以下の人事にまで口を出し、恐怖政治を貫いた。教育基本法の改正や道徳の教科化など、日本会議が求める政策は下村大臣時代に具現化している。柴山氏が下村氏に強い影響を受けるとなると、柴山氏のもと、また教育への政治的介入が強まるかもしれない」


その下村氏は今回の自民党役員人事で憲法改正推進本部長に就いた。

永田町関係者が話す。


「長年、自民党憲法議論を進めてきた船田元氏などをはずし、憲法には明るくないはずの下村氏を本部長に。党の憲法改正案を国会に提出するには総務会の全会一致が原則となることから総務会長には首相側近の加藤勝信氏を置き、異論を出させない体制を整えた。15年の安全保障関連法案の際は、当時の二階俊博総務会長が反対派を退席させ、全会一致をとりつけた」


安倍首相、そして日本会議の悲願の憲法改正に万全の体制を整えたということか。

そこに国民の姿は見えない。


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日本会議の影響で「道徳」に危機? 教科書には衝撃的な内容も…
AERAアエラ)2018.10.18 澤田晃宏
https://dot.asahi.com/aera/2018101700010.html?page=1

 

 

 

 

 

 


■戦後教育はどこが間違っていたのか 教育史の専門家がみる「改革のヒント」

GLOBE+(朝日新聞)2020.10.10 沖田行司・びわこ学院大学学長

https://globe.asahi.com/article/13750368


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・6・3・3の「単線型」教育の始まり


本論に入る前に、日本の戦後教育がどう作られたのかを簡単におさらいしておきたい。

日本の教育は、戦前と戦後で大きく変わったはずだった。


1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。

日本を占領した連合軍総司令部GHQ)は、日本政府に対して「四大教育指令」と呼ばれた命令を順次発布。


軍国主義を鼓吹した教育関係者の追放、学校教育と国家神道の結びつきを除去するなどの措置が取られた。

翌年にはアメリカ教育使節団が来日し、男女共学や、教育の地方分権化などを骨格とする報告書をGHQに提出し、これが戦後の教育改革の柱となった。


これを機に「6・3・3(小学校6年、中学3年、高校3年)」の単線型の学校教育制度が導入された。

それまで日本は5年制の旧制中学から医学専門学校に進めたり小学校から実業学校で学ぶことができたりするなど「複線型」の教育を行っていたが、アメリカをモデルとして「単線型」となったのは大きな変化であった。


沖田氏は、この「単線型」に疑問を投げかける。

「能力と発達時期の異なる子どもたちを、6・3・3制度の中で競わせ、偏差値で階層化された学校に進級させることが、本当にGHQアメリカ教育使節団が提唱した個性教育といえるのか」と話す。


スタートの平等性は保証されたが、それ以降の知識習得を中心とする教育についていけない子供たちは「落ちこぼれ」といわれて、人生で大きなハンディキャップを負うケースも目立った。

アメリカ教育使節団は「個性尊重」をうたっていたが、実際は単線化によって、画一化、偏差値重視が進んだとの見方である。


実は、アメリカにおける教育も、画一化の弊害が指摘されている。

特に、2002年、ブッシュ政権の「どの子も置き去りにしない法(No Child Left Behind Act)」の施行後、「テスト偏重」傾向はさらに強まっている。教育改革家でドキュメンタリー映画Most Likely to Succeed(成功に一番近い教育とは)」のプロデューサーでもあるテッド・ディンタースミス氏も、ここに危機感を持っていた。


単線型教育の「本家」である米国よりも日本のほうがさらに硬直的な面がある。

たとえば、外国人が米国の小学校に入学すると、当然、英語ができないので授業についていけない。


そこで、無料の「補習クラス」で底上げをしてくれるほか、数ヶ月の違いなら、学年をわざと落とすことが認められている。

日本の場合は、4月1日時点で、学年が厳密に区切られてしまう。

 

寺子屋の発想、現代に生かせる


日本の教育がもともとそうだったわけではない。

江戸時代に広く普及し、「読み書き」「そろばん」など実学を教えていた寺子屋では、複数の学年が一緒に学び、生徒同士の「教え合い」も日常だった。


「できる子」が「できない子」を教えるのは普通のこと。

それは「できる子」が損をする仕組みではない。


実は、一方的に聞くよりも、「人に教える」ことが、一番知識が定着したり深い学びにつながるのは、よく知られている。

寺子屋」において、先生は、いわばファシリテーターの役目だった。


沖田氏は、江戸時代の「寺子屋」の発想を現代に生かすことはできないだろうか、という。

「戦前の国家主義など反省すべき点は多々あった。だが、日本の良いところも、GHQによって『封建的』とみなされてしまった」と沖田氏は残念がる。


明治以降の日本の教育のモデルは、当初は、フランスやアメリカだった。

明治の中期ごろからドイツ方式を採用することになったが、それらは日本の伝統的な教育観念と融合しながら、日本独特の師弟関係や学校観を築き上げてきた。


だが、戦後の教育の外形的な特徴は、アメリカ一辺倒になってしまった、という。

 

・厳しい校則、どこから?


「単線型」は米国の影響だが、日本の厳しい校則はどこから来たのだろうか。

髪型や服装についての細かい規定があったり、制服が指定されていたりする学校は多い。


さらに一部の学校で、「下着の色は白のみ」などと指定したり、地毛が茶色の生徒を一律に黒く染めるよう指導したりする「ブラック校則」も問題になっている。

その点は、米国と関係はあるのか。


「それは、米国とは全く関係ないです。根っこは、明治以来ですね」と沖田氏は言う。

「明治5年の学制(フランス流の学区を導入)、富国強兵の流れの中で、軍部の流れが強まったのが背景です。日清戦争日露戦争を経験する中で社会主義運動が出てきて、そのころから校則が厳しくなり、『異端を許さない風土』が広がっていった」


米国では、制服の指定がない学校が一般的だ。

また、多くの学校では、髪の毛を染めたり、ピアスをしたりしても問題にならない。


小学生がみんなランドセルを背負っているわけでもない。

「今日、どういう服を着ていくか、どういう色が好きなのか、何を食べたいのか、選択するというのは極めて基本的な人間の権利だが、それが日本の教育にはない」


中学生の「丸刈り」が一般的になったのも、明治時代の徴兵制以降だという。

徴兵されると丸刈りになるが、同じように子どもたちにも丸刈りが広がった。


筆者が中学生だった1970年代は、まだ中学生の丸刈りは珍しくなく、筆者自身も丸刈りだった。

今、さすがに中学生の丸刈りは少ないが、野球部などは丸刈りを続けている学校も多い。


教育基本法の制定などで民主主義教育がうたわれ、戦後教育は戦前とすっかり変わったと思われがちだが、沖田氏によれば、学校文化には、戦前との連続性がしばしば見られるという。

 

・「先生主導」と「子ども中心」の揺れ

 

日本は戦争に敗れ、軍国主義は深刻な反省を迫られた。

そこで前述のように、GHQアメリカ教育使節団の影響を受けて、根本的な出直しをしたはずだった。


戦後、GHQのもとにおかれた民間情報教育局(CIE)は、戦争を起こした罪を日本の国民に自覚させることを「日本人の再教育」に位置づけた。

沖田学長は「日本人が戦争に至る歴史を反省すべきことはいうまでもない。だが、米国という大きな力に強制され、米国の価値観に染められたことで、主体的に反省することからかえって遠ざかってしまった」と話す。


その意味で、戦後アメリカ当局が日本の教育に取り入れようとした「個性尊重」は、真に主体性を伴った「個性尊重」を目指したのか疑問、という考えだ。


(中略)


・「複線型」による「生涯学習」を

 

では、これから日本の教育はどういう方向をめざすべきなのだろうか。

沖田氏は、一つのカギは、「複線型」の復活も含め、学生生活や人生の途中で「切り替えがしやすい」教育制度にすべきだという。


たとえば、看護師が一定の経験を積んだ上で、医学部に編入し、医師になるようなことが可能な教育が望ましいという。

教育界には、「複線型」については、もともと階級社会であったり格差が激しい国において、定着しやすい制度であるという見方がある。


そのため、「複線型」にすることによって、格差が固定化してしまうとの懸念を持つ人もいる。

この点について、沖田氏は、「戦前の複線型は早い段階で人生が決定づけられるという欠陥を持っていたことは確かだ。


その点は改め、能力の発達に応じて複線型における変更が可能となれば、個性にあった学びを自分で発見することが可能となるのではないか」と話す。

人工知能(AI)の発達などによって、人間が機械に代替されるような分野は増えてきた。


このような時代で、生徒が将来、職業を得ていくことを考えると、生徒の得意な科目、興味ある分野や個性を伸ばしていく教育の重要性は増してくる。

一方で、小学校や中学時代には、生徒本人が、自分が本当にやりたいのは何なのか、得意なことは何なのか、自分ではまだ見極めがつかないケースも多い。


早熟か晩熟かにかかわらず、自らの得意分野、やりたいことを「発見」したときに、柔軟に切り替えができるような教育制度を構築すべきだ、と沖田氏は言う。

その意味で、社会人になっても学び直しが可能な、一生学び続けられるような教育制度の構築も不可欠である。


今でも社会人入試はあるが、それを財政的に支えるような制度が必要だという。

芸術、スポーツ、テクノロジーなどの世界では、高校などでは、ある程度多様化は進んできたが、さらに個性を伸ばす方向の改革を求めている。


大学入試については、今でもAO入試や推薦入試などがあるが、さらに多様化を進めるべきだという。

東京芸術大学に入学するのに、数学なども含めた共通テストを受けなければならないが、アーティストを育てるための大学の試験科目として数学は必要なのか」と話す。


他方、入試科目に科さない形でも、理系も文系も、哲学を学んだり、古典を読み込んだりすることはあったほうがよいという。

将来、科学者になるにしても、リベラルアーツの素養が重要だとみるためだ。


かつて民俗学者柳田国男は前近代の「群れ」の教育を論じて、子どもたちが自ら集団のルールを作り、リーダーをつくり、そして集団の秩序を形成していった、と述べている。

沖田氏は、「群れ」の中で個性を認め合う関係を子どもたちが作り出していくような姿は復活させるべきだという。


前述のように、江戸時代のような「寺子屋スタイル」、複数学年にまたがる生徒同士の「教えあい」の手法も、広げていく価値があるという。

一部の私立の学校では、そうした試みをすでに始めているところもある。


真に「多様性を尊重」し、地域に根ざした「共同体」も支える形の「個人主義」が広がること。

そして人生のさまざまな局面で「選択可能」な教育制度にしていくこと。


そうした改革が、日本の復活を支えることになると、沖田学長は考えている。


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戦後教育はどこが間違っていたのか 教育史の専門家がみる「改革のヒント」
GLOBE+(朝日新聞)2020.10.10 沖田行司・びわこ学院大学学長
https://globe.asahi.com/article/13750368