oonoarashi’s blog

日銀金融緩和で刷られた円の行き先が日本企業でも日本国民でもないカラクリ(Dr.苫米地 2016年9月15日TOKYO MXバラいろダンディ) https://www.youtube.com/watch?v=tvzNqO6qsGI

【日本経済が破滅に向かう転機となった中曽根元総理「プラザ合意」】日本経済を“丸ごと刈り取った”米国「プラザ合意」~バブル経済崩壊、その巧妙な手口!~

 

プラザ合意から33年、1985年は何だったのか

~失われた20年から抜け出せていない原因は~

東洋経済 2018/02/27

https://toyokeizai.net/articles/-/209556


~~~


・「失われた20年」の原点


1970年代から80年代にかけて、日本経済は活力にあふれ、アメリカを猛然と追い上げていた。

アメリカも、このままではやられてしまうと、日本経済を警戒していた。


当時のアメリカにとって、脅威だったのは、中国ではなく、日本だった。

79年には、アメリカの社会学エズラ・ヴォーゲル氏が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出し、日本では70万部を超えるベストセラーとなった。


この本は日本の経済成長の原因を探ったもので、日本人の学習意欲、読書意欲を高く評価している。

なによりもこの本は、日本人に「もしかすると、日本はすごいのかもしれない」と自信を持たせた。


最近になって中国でも中国語訳が出て注目されており、本のタイトルはまさしく直訳の『日本第一』という。国と国の比較は難しいものだが、ひとつの尺度として、GDP国内総生産)の数字を見てみよう。

85年のGDP(当時はGNP=国民総生産)は、世界の首位がアメリカの4兆3400億ドルで、2位が日本の1兆3800億ドルだった。


この年の世界のGDPを総合計すると12兆4000億ドルだったから、計算すると、アメリカは世界のGDPの35%を占めている。

まさしく超大国だ。


しかし、2位の日本も12%を占め、アメリカに迫っていることが分かる。

太平洋戦争が終わったのが1945年だから、そのわずか40年後には、日本は、アメリカを追い上げる国として復活した。


アメリカには及ばないにせよ、このころ、日本国内でも、「日本は経済大国」という言い方をするようになった。

3位は、当時の西ドイツで6500億ドル(世界の5%)だった。


日本のちょうど半分の規模であり、日本経済がいかに大きかったかを示している。

4位はフランス、5位はイギリス、6位はイタリア、7位はカナダだった。


この7か国が、主要国首脳会議(G7サミット)のメンバーになるのは、ごく自然なことだった。

ちなみに、中国は、ようやく8位に入っているが、GDPは3100億ドル、世界の2%に過ぎない。


やがて日本を抜き、アメリカに次ぐ経済規模になってG2を自称するようになるとは、このころ、だれも思わなかった。

当時、G2という言い方はなかったが、もしG2という言葉があるとすれば、それは、アメリカと日本のことだった。


その日本は、80年代末にバブル経済の絶頂期を迎えたものの、90年に入るとバブルが崩壊し、「失われた10年」の長期不況に入った。

失われた10年が終わるはずの2000年になっても不況は終わらず、失われた10年は「失われた20年」となってしまった。


2011年には東日本大震災が起き、失われた20年は、いろんな意味でどん底に陥った。

そこに登場したのが安倍晋三首相のアベノミクスだ。


アベノミクスは高評価と酷評とに二分され、なお、評価は定まらない。

ただ、公平に見て、失われた20年が「失われた30年」になることをアベノミクスが防いだのは間違いない。


しかし、アベノミクスからの出口が見えないこともまた事実である。

では、80年代、あれほど元気でアメリカに迫っていた日本経済が、いったい、なぜ、「失われた20年」というような長期不況に陥ってしまったのだろう。


いま私たちは、失われた20年と簡単にいうが、20年に及ぶ長期不況は、主要な資本主義国として、初めて経験する異常な事態だった。

日本は20年もの不況によく耐えたというのが、正直なところだ。


1945年8月15日、日本は太平洋戦争に負け、無条件降伏を受け入れた。

当時の東京の写真を見ると一面の焼け野原で、いったいどうやって、そこから立ち直ったのかと思うほどだ。


しかし、戦後の日本は驚異の経済復興を遂げ、政府の経済白書が早くも1956年に「もはや戦後ではない」と宣言した。

1956年は、終戦から11年しか経っていない。


焼け野原の状況から、たった11年で、戦前の経済水準を回復したのだ。

ところが、バブルが崩壊した後の長期不況は「失われた20年」だ。


日本経済は、太平洋戦争の敗戦から11年で立ち直ったのに、バブル崩壊では20年経っても立ち直ることができなかったのである。

今回の長期不況は、日本経済にそれほどのダメージを与えていた。


日本の失われた20年は、バブル経済の崩壊によってもたらされた。

バブル経済の時期はいつかというと、88年、89年の2年間のことだ。


なぜそういい切れるかというと、その2年間、東証の株価は、24か月連続して上がり続けたからだ。

 


円高不況の対策に「強力な金融緩和」


実は、バブルの直前、86年から87年の夏ごろまで、日本経済は、かつてない円高不況に見舞われていた。

この円高不況で、日本企業はトヨタソニーも輸出競争力が下がり、政府も経済界も、このままでは日本経済は沈没するのではないかと本気で心配した。


そこで政府は景気対策を矢継ぎ早に打ち出し、日本銀行は強力な金融緩和を実施した。

これは86年、87年の話だ。


しかし、どこかで聞いたような話ではないだろうか。

そう。黒田東彦(はるひこ)日銀総裁の「大胆な金融緩和」だ。


大胆な金融緩和は、アベノミクスの根幹をなす。

86年、87年は、まず、政府が景気対策を打ち、次に、日銀が金融緩和を繰り返し実施した。


ちょうどそこへ、円高のメリットが遅れて効いてきた。

原油など輸入品の値段が円高によって安くなったのだ。


円高は、デメリットとしてまず不況をもたらしたが、次に、輸入原材料の値下がりというメリットをもたらした。

企業にとっては予期せぬコストカットだった。


それがみな合わさって、88年からバブルが始まった。

ではなぜ、それほどの円高がやってきたのか。


85年9月21日、22日の土日、ニューヨークのプラザホテルに、アメリカの呼びかけで、日本、アメリカ、西ドイツ(当時)、イギリス、フランスの5か国の蔵相と中央銀行総裁が集まった。

G5である。


冒頭で触れたように、当時の日本は活気にあふれていた。

欧米諸国に対して巨額の貿易黒字を出し、世界経済でほとんどひとり勝ちといっていいような状況だった。


しかし、日本から見れば貿易黒字でも、相手から見れば貿易赤字だ。

これにアメリカは不満を持ち、対日批判を強めていた。


アメリカは、日本の黒字の原因は、行きすぎた円安だと分析し、それまでの円安を円高に転換しようと考えた。

円相場は、85年8月に1ドル=240円前後だった。


いま振り返ると、よくそんな円安だったものだと、改めて驚く。

アメリカはこれを問題にし、G5の会議を開いたのである。


G5は、それまでの円安を円高に方向転換することを決めた。

日本もそれを受け入れた。


これを、「プラザ合意」と呼ぶ。

 


・1ドル=75円はプラザ合意による円高の行き着いた果て


85年9月のプラザ合意は非常に効果的で、その直前まで1ドル=240円前後だった円相場が、12月には200円台という円高になった。

翌86年早々には190円台に入り、これが円高不況を呼んだ。


後に、2009年から12年までの民主党政権で、円相場は1ドル=75円という空前の円高をつけた。

これは、プラザ合意による円高が行き着いた果ての数字であった。


2017年、18年は、1ドル=110円前後で推移しているが、これも、85年のプラザ合意から、延々と続く円相場なのだ。

85年のプラザ合意で激しい円高が始まり、それが円高不況を呼んだ。


円高不況に対応するため政府は経済対策を繰り返して打ち、日銀はどこまでも金融緩和を進めた。

そこにちょうど円高メリットが出てきた。


それらのすべてが同じタイミングで重なって効果を発揮し、バブルを呼び起こしたのである。

バブルは、88年、89年の2年間、ふくれるだけふくれて、パチンとはじけて崩壊し、90年から失われた20年が始まった。


すべては、プラザ合意に始まる。

活力にあふれた日本経済は、プラザ合意を境に、根底から変わり始めた。


プラザ合意で日本は、日本経済を弱くすることを自ら受け入れた。

それは、日本にとって事実上の降伏のようなものだった。


しかも、ただの降伏ではない。

合意を受け入れるにしても、円高が行きすぎて日本に悪影響が出た場合はG5を再び招集して、行きすぎた円高を止めるとか、合意の内容を再検討するとか、なんでもいいから、条件を提示しておけば、その後の展開も少しは違ったかもしれない。


しかし、プラザ合意によって長く激しい円高が始まり、日本経済が低迷と停滞に向かうとは、このとき、だれも予想していなかった。

そのため、プラザ合意を受け入れるとき、日本は、何の条件もつけなかった。


その結果、プラザ合意は、日本経済の無条件降伏となったのである。

実のところ、当時の日本には、プラザ合意が無条件降伏になるとの認識はまったくなかった。


それどころか、プラザ合意を主導したアメリカにも、そこまでの認識はなかったと思う。

では、日本はなぜ、プラザ合意を受け入れたのか。


合意を拒否することは不可能だったのか。

合意を受け入れた後、日本経済はどのように変わっていったのか。


85年にプラザ合意を受け入れたとき、日本経済は、すべてが変わった。

円高も、バブルも、バブル崩壊も、失われた20年も、アベノミクスも、すべてプラザ合意が源流となっている。


30年ちょっと前のことだ。

 


~~~
プラザ合意から33年、1985年は何だったのか
~失われた20年から抜け出せていない原因は~
東洋経済 2018/02/27
https://toyokeizai.net/articles/-/209556

 

 

 

 

森永卓郎が分析~なぜ日本だけが経済成長できないのか

ニッポン放送 2018-12-19

https://news.1242.com/article/163747


~~~


垣花正 あなたとハッピー!」(11月21日放送)に経済アナリストの森永卓郎が出演。GDPシェアは20年前の3分の1になってしまった。

なぜ日本だけが経済成長できないのか??その理由を近著に基づいて分析した。

 

・日本のGDPシェア3分の1のショック~きっかけは1985年の「プラザ合意


多くの方は日本経済が低迷しているとは思っていますが、大転落しているとはあまり実感していないと思います。


ところが実はとてつもない大転落をしているのです。

世界のなかで日本経済が占めるGDPのシェア、1995年に18%あったものが、直近の2016年では6%まで下がっています。


3分の1に落ちた。

これは裏返すと世界並の普通の国と同じような経済成長をしていたら、今頃我々の所得は3倍になっていたということです。


なぜそんなことが起こったのか、歴史を振り返って行くと、最初のきっかけは1985年ニューヨークのプラザホテルというところに先進国の大蔵大臣、いまの財務大臣中央銀行総裁が集まって「プラザ合意」というものをやりました。


このプラザ合意を決める前の為替レートは1ドル240円でした。

それがたったの2年で120円まで円高になった。日本だけが倍になったのです。


為替レートというものは、私は国の競争力の90%以上を占めていると言っています。

なぜなら、為替が2倍になってしまうと日本が輸出する自動車や家電製品の値段が2倍になってしまう。

そうしたら売れなくなりますよね。

 

・バブルは日銀が煽った可能性が高い


現にこのプラザ合意の後、輸出がガツンと落ちて、とんでもない円高不況が日本経済を襲うわけです。

そこで政府はこの円高不況対策として思い切った財政出動をして、日銀は金融緩和をして景気対策をしたのだということになっているのですけれども、それで何が起こったかと言うとバブルが起きたわけです。

それが1980年代後半のバブル。

良く調べて見るとこのバブルは日銀がわざと煽った可能性が極めて高いのです。


どういうことかと言うと、昔は窓口指導と言って銀行に貸出枠を与えていました。

これは役人が予算を消化するのと一緒で貸出枠までいっぱい貸さないと、次の年の貸出枠が減らされてしまう。

ところが円高不況で銀行に貸し先なんて無かったのです。

仕方がないので不動産融資に走って投機がどんどん進んで行った。


そしてバブルが崩壊する。

このバブルの崩壊も、実は当時の大蔵省の総量規制、不動産融資を規制しようというものがきっかけだと言う人がいます。

でも、きちんと歴史を見るとそうではないのです。

バブルが崩壊した後締めに行っているのです。

日銀の資金供給量を見ると日銀はバブルが崩壊してどんどん日本経済が悪化していくなかでも、どんどん金融を絞めて行く。

つまり高い山とそこから先の深い谷を作ったのは大蔵省と日銀だったのです。

どう考えても、わざとやったのです。


なぜ、そんなことをしたのかと言うと、1980年代アメリカはものすごく日本に対して怒っていました。

石油ショックの後の日本が燃費性能の良い、高性能の小型車をバンバン輸出して、アメリカ車が売れなくなった。

「ふざけんじゃねえぞ、日本叩き潰してやる」と、いまのトランプ大統領と同じようなことをもっと強烈に言っていたのです。

そのアメリカが日本をやっつける為にどうしたらいいか、日本を乗っ取るのは難しいのですね。

なぜかと言うと、株式の持ち合いをしていて、お互いに企業が株式を持ち合っているのでそう簡単に乗っ取れないのです。

 

バブル崩壊によって暴落した地価~小泉内閣不良債権処理


それから、メインバンクというものが付いていて、銀行が、ちょっと経営が悪くなるときちんと資金を融通してくれて、なおかつ本当に悪くなると銀行が役員を送り込んで来て経営再建をする。


しかも系列間でお互いに取引する、例えば三菱グループだと生命保険は明治生命とか、車は三菱自動車とかグループ内でできるから、経営が安定するわけです。


それをやっつけるのは難しい。

どうしたらいいか、1つだけ方法があったのです。


日本は不動産担保融資というものをしています。

不動産を担保に取ってお金を貸す。


これは銀行にとってリスクはないのです。

返せなくなったら担保を処分して回収すればいいわけですから。


しかし、ここに1つだけアキレス腱があるのです。

地価が暴落すると回らなくなるのです。


担保を取っても、地価が暴落すると担保の価値がなくなってしまうので回収ができなくなってしまう。


普通土地は下がらないのですけれど、下げる手段というものがバブルを起こして、そこから奈落の底に突き落としてやるということです。

そうすると下がるのです。


都心の一等地は、場所にもよりますけれど10分の1になった。そうすると全部担保割れになってしまう。

それで担保割れを起こした企業を片っ端から潰せとやったのが、小泉内閣が行った不良債権処理です。


同時多発テロが起こった後、小泉総理はホワイトハウスブッシュ大統領を訪ねたのですよ。


当時小泉さんが「日本は自衛隊を派遣してでもこのテロとの戦争に参加します」と言ったら、ブッシュ大統領は「小泉総理、それは良いから日本は1日も早い不良債権処理を進めてくれ給え」と答えた。


アメリカはその同時多発テロで経済的に苦しんでいたのですね。

それで、「不良債権処理を進めて日本の企業を二束三文でアメリカに全て受け渡せ」ということだったのだと思います。


そしてそこから不良債権処理が始まったのですけれども、この後もっと凄いことが起こります。

 

・ハゲタカの魔の手は企業だけでなく金融機関へ


なかなか不良債権処理が遅々として進まないなかで何をやったかと言うと、銀行を追い詰めれば融資先が一気に売りに出て来るぞということが分かるわけです。

それでUFJ銀行がターゲットになった。

UFJ銀行が大赤字を出して、三菱銀行救済合併をしたという表面的な構図になっていますが、この赤字は実は金融庁が作り上げた逆粉飾決算だったというのが私の主張なのです。

 

三菱UFJ銀行の戻り益


乗り込んで行って、不良債権でも何でもないものを、「これも不良債権だ、これも不良債権だ」というレッテルを張って行って大幅な赤字を出して経営を追い込んだのです。


それがインチキだったと分かるのは、三菱と合併した後、三菱UFJ銀行に莫大な不良債権の戻り益が発生するのです。

この戻り益というものは実は不良債権だと思ったのだけれど、実はそうではなかったというのが戻り益。


これが7,000億円という、とてつもない額で発生するのです。

それが、金融庁がインチキをしたという何よりの証拠だと私は思います。


UFJ銀行を追い詰めて、そこの融資先を二束三文でたたき売らせるためにやったことです。

竹中大臣は当時、「合併は認めるが合併をするまでに不良債権を綺麗にしろよ」と言ったという話なのです。


これで日本の資産がとてつもなく奪われたのです。

イメージしやすいのはゴルフ場なのですが、いまはもう日本のゴルフ場ってハゲタカさん達の持ち物になってしまっています。


これは作るのに100億円くらいかけて1億、2億、3億というとんでもない値段で売り飛ばされているのです。

そういうことが企業レベルでもいっぱい起こったのですよ。


だから日本の企業が日本のものでなくなってしまったら、経済は失速する。

 

・日本人が騙された3つの神話


いまでもそれが続いています。

例えば水道法の改正で水道を民営化すると、グローバル資本が水道をやる。

カジノを解禁すると、グローバル資本がカジノをやるのです。

本当は日本人がカジノをやればいいと思うのですけれど、それがずっと続いて行く。

なぜこの全面服従をずっと続けなくてはいけないのかということがエピローグに書いてあるのですけれども、ここはヤバい話なので放送では言えません(笑)。

私の見立ては日航123便の墜落事故が原点だったのではないかなと思います。

そして、このとてつもない借りをアメリカに作ってしまったのが、これをもたらしたのではないかということです。


日本人が騙された原因は、アメリカに守って貰わないと日本の防衛はできないということと、消費税をあげないと財政が破たんしてしまうということ、金融緩和を続けるとハイパーインフレになるという、この3つの神話を信じたことでこういう状態になってしまったのです。

 

~~~
森永卓郎が分析~なぜ日本だけが経済成長できないのか
ニッポン放送 2018-12-19
https://news.1242.com/article/163747

 

 

 

 


■産業春秋/「プラザ合意」再来懸念

日刊工業新聞 2018/9/21

https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00489276


~~~


1985年9月22日、先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)でドル高是正のための協調介入を行う取り決めがなされた。

これが「プラザ合意」だ。

その後、1年で為替相場は1ドル=約240円から1ドル=約160円と急激な円高ドル安に変動した。


これによって、日本の貿易黒字(輸出)にブレーキがかかった。

一方、80年代当時は現在のような企業や個人が海外投資を行う土壌がなかったため、国内でマネーがだぶつく「カネ余り」が起こる。


このカネが株と土地に向かい、バブル景気が訪れた。

世界の企業時価総額トップ10のうち8社を日本企業が占め、山手線内の地価だけで全米の地価を上回ったと言われるほど、日本の株価バブルと不動産バブルは、想像を絶する膨らみをみせた。


株価は89年末を、地価公示価格は91年をそれぞれピークに暴落し、バブルは弾けた。

プラザ合意は日本に一時の栄華と、その後20年に及ぶ低迷をもたらした。


歴史にもしは禁物。

しかし、「もしプラザ合意がなければ」、日本にバブル景気はなかったに違いない。


~~~
産業春秋/「プラザ合意」再来懸念
日刊工業新聞 2018/9/21
https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00489276

 

 

 

■起承転結で学ぶ、日本経済のバブル崩壊から異次元緩和までの歴史

・日本経済が破滅に向かう転機となった「プラザ合意

東条雅彦 | マネーボイス 2017年8月8日

https://www.mag2.com/p/money/276434


~~~


今回は「日本のバブル発生と崩壊」について解説していきます。

歴史は面白いもので、現在の出来事はすべて過去の出来事と繋がっています。

日本経済が1980年後半にバブルが生じて、その後、崩壊してしまったのは、米国や世界経済の情勢と大いに連動しています。


地政学的には米国の力が強いので、日本の金融政策は米国の政策に左右されてきた面があります。

1987年2月22日に先進国7カ国で交わされた「ルーブル合意」では、国際的にドル安とマルク安を止めるために、各国の中央銀行は協調すると約束しました。


この1987年の時点で、日本経済はバブルになっていました。

本来、日銀は自国経済を優先して、速やかに金利を引き上げるべきでした。

しかし、経済には政治も関係しており、そこには国と国の力関係が作用してきます。


ルーブル合意ではドイツと違って日本は米国の指示に従いましたが、これはバブル経済に拍車をかける、決定的な誤りでした。

ドイツは歴史的に「デフレよりもインフレの方が怖い」という事実を経験として知っていたため、ルーブル合意を実質的に破棄しました。


1980年代後半に起きた日本のバブル発生と崩壊の過程は、「インフレが起きている時に日銀が利上げできないとどうなるか?」ということを如実に表しています。


現在、日銀は「異次元緩和政策」を継続せざるを得ない状況に追いやられており、金利を引き上げることができなくなっています。

中央銀行はあくまで、自国の通貨価値を守ることを念頭に独立して政策を実施することが大切です。(『ウォーレン・バフェットに学ぶ!1分でわかる株式投資~雪ダルマ式に資産が増える52の教え~』東条雅彦)

 

・1989年12月29日、日経平均株価が3万8,915円をつけた


1989年12月29日、日経平均株価が3万8,915円をつけました。

この時がまさにバブルのピークでした。


その後、日本経済は「失われた10年」「失われた20年」「失われた25年」と、ゴールの見えない暗闇に突入していきます。

感覚が麻痺してわからなくなっている人もいるかもしれませんが、日本経済は今もこの暗闇の中にいます。


1989年の翌年の1990年10月1日には、日経平均株価は一時2万円割れを記録しています。

たった9ヵ月あまりで、半値近くまで暴落してしまったのです。


日本株の大暴落は1987年10月19日、ニューヨークダウがたった1日で22.6%も暴落したブラックマンデーとはまったく様相が違っています。

ニューヨークダウは、ブラックマンデーの約2年半後の1989年10月には値を戻しています。

日経平均株価はもうかれこれ27年が経過しているのに、なかなか当時の高値を更新できずにいます。

それは、1980年代後半に生じたバブルがあまりにも強大だったためです。


一体、どういう経緯で強大なバブルが生じてしまったのか?


歴史の点と点を線で結んでいくと、まるで起承転結のストーリーを見るかのように、過去の事実と未来の事実はしっかりと繋がっていることがわかると思います。

 

・【起】1970年代に起きた2度の石油ショック


1980年代後半に起きた日本のバブル崩壊のことを理解するには、一旦、時計の針を1970年代に戻す必要があります。


今から半世紀前の1974年、第一次石油ショックによって突如、世界中で物価の上昇が発生し、不況に見舞われました。


1973年10月16日、OPEC(石油輸出機構)が原油価格を70%も引き上げることを決定しました。

背景にあったのは、1973年10月6日から始まった第4次中東戦争です。

戦争によって安定的な原油の供給が難しくなりました。


日本では物価が一気に20%も上昇して、紙供給が困難になるという噂が広まって、トイレットペーパーを買うために長蛇の列ができていました(※これはあくまで噂が広まって起きた騒動である点には留意願います)。


この世界的な不況を脱出するために、日米独の3ヵ国が協調して大規模な財政出動を行って、世界経済を回復させようとしました。


しかし、その5年後の1979年、第二次石油ショックにより、再び、世界経済は不況に突入していきます。


石油の価格は中東の政情に大きく作用されてしまいます。

原油価格の推移を確認すると、100年近く続いた安値が1970年代に破られたことがわかります。

 


・【承】石油ショックから抜け出した日本と「双子の赤字」で苦しむ米国


1979年の石油ショックによって、再び世界経済は不況に突入してきます。

その不況から抜け出すために日本は大規模な財政出動を行い、世界に先駆けて不況から脱出します。


一方、なかなか不況から脱出できない米国は1980年代に入ると、「物価が上昇するのに賃金がまったく上がらない」というスタグフレーションに陥りました。


FRBは急激なインフレを押さえ込むため、1979年には9%だった政策金利を翌年の1980年に一気に13%まで引き上げました。

その後もインフレ退治のために、FRB金利を15%まで引き上げます。


その結果、世界中のお金が「ドル」に向かいます。

1年で10%以上の金利を得られるドルが人気化して、相対的に円の人気が下がります。


1981年1月、米国の大統領に就任したロナルド・レーガンは、このスタグフレーションから脱出するためにレーガノミクスを推し進めます。


1980年代前半、米国はドル高のために輸出競争力が落ちてきて、双子の赤字貿易赤字財政赤字)に苦しむようになってきます。

米国で売られていた日本の自動車が急に安くなり、飛ぶように売れていきました。


自動車産業が盛んなデトロイト市民は日本車を叩き壊して輸入急増に抗議しました。

1980年から1985年までの5年間で貿易赤字額(対日本)が4倍に増えて、米国政府の財政赤字も2.8倍に膨れ上がりました。


米国はなんとかしてこの双子の赤字を解消しようとしました。

自国だけの力ではどうしようもなかったので、国際協調を呼びかけます。

 

・【転】日本経済が破滅に向かう転機となった「プラザ合意


1985年9月22日に米国のベイカー財務長官は、ニューヨークのプラザホテルに先進5ヵ国(日・米・英・独・仏=G5)の大蔵大臣(財務長官)と中央銀行総裁を召集しました。

そこで、米国は他国を説得してドル高を是正する協調行動への合意(=プラザ合意)にこぎつけることに成功しました。

参加各国が「ドルに対して自国通貨を一律10~12%幅で切り上げる」ことに合意して、為替市場で協調介入を行うことが決まったのです。


米国の狙いは明確でした。

一言で言えば、日本の輸出競争力を弱めて、米国の輸出競争力を高めることにありました。


その結果、1ドル236円(1985年9月)だった為替レートが、1年後(1986年9月)には1ドル154円まで円高ドル安が進みました。

たった1年で為替レートが約35%も動いたのです。

日本の輸出業者がダメージを受けてしまい、円高不況を生み出します。


日本は今までのように輸出で儲けたお金を国内に還流するというモデルを継続させるのが、政治的に難しい状況になっていました。

双子の赤字で苦しむ米国からの圧力は凄まじく、日本は経済構造の転換を迫られたのです。


1986年4月7日、中曽根内閣の私的諮問機関「経済構造調整研究会」が、日本の今後の経済政策をレポートにまとめました。


この研究会の座長であった前川日銀総裁の名前を取って「前川レポート」と呼ばれています。

この前川レポートの提言にそって、日本政府は経済政策を推し進めます。


レポートで謳われていた内容は、「内需拡大」と「産業構造の転換」でした。

この2つは米国が元々、日本に要求していたこととなります。

米国は自国の経済を守るために日本の輸出競争力を削ぎ落として、外需ではなく内需で経済が回るようにしてもらいたかったわけです。


日本は米国との貿易摩擦を解消するために、産業構造を「外需」から「内需」に転換することにしました。

前川レポートには、「10年で430兆円の公共投資を中心した財政支出を拡大すること」が記されています(これは米国に要求されたので、そう書いたのです)。


当時、まさかこの内需拡大政策への転換が「バブルの発生と崩壊」を引き起こし、日本政府が借金漬けになるきっかけを作ることを、明確に予想できていたエコノミストはほとんどいなかったと思われます。

 

・【結】1980年代のバブル発生とその崩壊


1985年9月22日のプラザ合意によって、日本は急激な円高に見舞われます。

・1ドル236円(1985年9月)→ 1ドル154円(1986年9月)

プラザ合意の想定を遥かに上回るペースで円高ドル安が進行していきました。


日銀は「円高不況」に対応するために急遽、公定歩合(今でいう政策金利)を約5%(1985年)から3%(1986年)まで引き下げました。

金利を引き下げることで、企業は投資を行いやすくなり、家計にとっては住宅ローン等が借りやすくなります。


日本政府も米国政府に要求された通りに、経済構造を外需型から内需型へ転換する政策を推し進めます。

政府の公共投資の拡大と日銀の金利引き下げによる「円高不況対策」は、結果的にバブル経済へと日本を追い込みました。


自国内でお金を回そうとした結果、お金の向かった先は「不動産」と「株」でした。

あろうことかさらに日銀は、1987年に(当時)史上最低の2.5%まで金利を引き下げます。

企業はお金を借りて株や不動産に投資する「財テク」に走り、銀行は収益性を度外視した不動産融資を増加させました。


当時の日経平均株価のチャートを見ると、本当に驚愕せざるを得ません。

1985年に1万3000円だった日経平均株価は、1989年12月29日に付けた3万8,915円まで上昇していきます。

5年間で日経平均株価は約3倍になったのです。


1987年10月17日の発生したブラックマンデーですら、単なる押し目買いのチャンスだと見なされていました。


日本株の平均的なPERは80倍にも達していました(一般的に適正だとみなされるPERは20倍前後だといわれています)。

NTT株のPERは177倍になり、日本航空株は400倍になりました。

当時はそれでも「株は下がらない」と信じられていた時代です。


今から思えば、プラザ合意(1985年)を受けて日本政府と日銀が行った内需拡大政策で生じた株高は、全部バブルだったのです。

当時の日本経済の実力では、1万3000円前後が妥当な範囲でした。


この株バブルと同時進行で、不動産バブルも猛スピードで進行していきました。

銀行はそれまで担保不動産の評価額までしか融資してこなかったのに、その時期は評価額の2倍まで融資が行われていたといいます。

企業は本業とは別に「財テク」と称して、銀行から資金を調達して不動産を買い漁りました。


1990年には日本の不動産評価額は2000兆円を超えて、日本の25倍の面積のある米国全体の4倍に匹敵する状況になっていました。

同じ面積で日本と米国を比較すると、日本の不動産評価額は米国の100倍に達していた計算になります。

当時は東京の山手線の内側の土地価格で、アメリカ全土が買えるという試算が出ていたそうです(そんなアホな!?)。


「企業の保有している不動産には莫大な含み益がある」と見なされて、株式も売買されていました。

その意味では「株バブル」と「不動産バブル」は完全にリンクしています。


日経平均株価は1989年12月末の3万8,915円を頂点にして、わずか9ヵ月後には2万円を割り込み、バブル経済は崩壊しました。

やはり「神の見えざる手」は存在しています。

実際の適正な価格に届くまで落ち続けるのです。

この後、「失われた10年」「失われた20年」「失われた25年」となり、今へと繋がっています。

 

・これまでの経緯のまとめ


【起】(1970年代)
・中東の政情不安から2度の石油ショックが起きた

【承】(1980年代前半)
・日本は輸出業を中心に経済を立て直しつつあった
・米国はレーガノミクスにより双子の赤字を抱えるようになった

【転】(1985年)
・先進各国は米国の要求を飲んでプラザ合意に応じた⇒円高ドル安の発生
・日本は経済を「外需」型から「内需」型に転換する政策を進めた

【結】(1980年代後半)
・日銀の低金利政策と日本政府の内需拡大政策が裏目に出て、資金が株と不動産に向かい、日本をバブル経済に追い込んでしまった!

(1990年には日経平均株価が暴落し、バブル経済が崩壊した)
→ その後「失われた25年」に繋がっていく

 

・最後の賭けに打って出た「異次元の金融緩和政策」


日本のGDPバブル経済が崩壊した1990年代前半からあまり伸びなくなってきて(下図の赤枠部分)、経済が停滞するようになります。


バブル崩壊後も、国債発行残高だけは確実に積み上がってきています。

気がつけば、GDPに比べて政府総債務残高が2倍以上に膨らんでいます。


日本経済の潮の目が変わったのは、1985年のプラザ合意です。

米国を救うためにすべての要求を飲みました。

米国に10年間で40兆円の公共投資を要求されて、1990年代には合計400兆円(10年間×40兆円)の債務を積み上げました。


元々の債務300兆円、米国要求の公共投資400兆円、その他(社会保障費等)300兆円、合計すると、債務は1000兆円を突破して、1990年代からGDPの伸び率が著しく鈍化したこともあり、既に財政の持続が不可能な領域に突入しています。


政府の一般会計歳出に占める主要経費の割合(2017年度)を確認すると、国債費(借金の返済):全体の24.1%(約4分の1)、社会保障費(年金、医療等):全体の33.3%(約3分の1)、に達しています。

この2つを合計すると57.4%です。


社会保障費と国債費の2つの経費に共通しているのは、政府の主体的な意志でコントロールするのが難しいという点です。


国債費は過去の借金の返済なので、支払いを拒むわけにはいきません。

社会保障費は高齢者の割合が増えれば、自動的に上昇していく経費です。

人口動態を短期で動かせないため、これも実質的にはアンコントローラブルな経費になっています。


1960年度の予算を見ると、国債費と社会保障費の合計割合がたったの12.6%でした。

昔の方が圧倒的に政府は「富の再配分」によって、自由な経済政策を実行できました。

今はもう6割近い支出が防戦型の経費(社会保障費、国債費)で消えていき、経済を良くするような攻撃型の経費に予算を配分するのが難しくなってきています。


そしていよいよ、行き詰った日本政府は最後の賭けに出ることにしました。

それが2013年4月から始まったアベノミクス(異次元の金融緩和)です。


日銀は、政府が毎年積み増す約40兆円分の国債を全量、買い切っています。

日銀が政府の債務を肩代わりしなければ、代わりに買い支えてくれるプレイヤーは存在しません。

現在、進行中の「異次元の金融緩和政策」は、我が国にとっては最後の金融政策となります。


リフレ政策の真の目的は「財政ファイナンス」と「金融抑圧」の2つです。

今までの歴史の点と点を結んでいくと、リフレ経済学は生まれるべくして生まれたものです。


そして、起承転結の物語りの「結」については、密かに現在進行形の話です。

日本円に対する信任がなくなるまで日銀は異次元緩和を続けて、政府の財政破綻という本当の結末がやってきます。


その結末に遭遇するまで、政府系エコノミストは「大丈夫だ」と言い続けるでしょう。

過去の数字を追っていけば、政府の財政持続が危うくなっていることは明らかなのに、国民には真実を伝えない…。

とても情けない話です。


~~~
起承転結で学ぶ、日本経済のバブル崩壊から異次元緩和までの歴史
・日本経済が破滅に向かう転機となった「プラザ合意
東条雅彦 | マネーボイス 2017年8月8日
https://www.mag2.com/p/money/276434

 

 

 

 

■日本経済を“丸ごと刈り取った”ユダヤの陰謀とは? バブル経済崩壊、その巧妙な手口!

exciteニュース 2016年11月8日

https://www.excite.co.jp/news/article/Tocana_201611_post_11394/


~~~


・日本の富を「刈り取る」ために80年代に実施された仕込み


より広い見方をすれば、日本から富を収奪する計略は、1972年にロックフェラー邸で開かれた米日欧三極委員会(トライラテラル)創設会議からスタートしたと見ることもできる。


なぜなら、この時点で意図的か否かはともかく、いったん欧米諸国の仲間として日本を引き入れたことが、のちの合法的な横領の成功へと繋がったからである。

遅くとも、この三極委員会メンバーで埋め尽くされたカーター政権の末期、つまり80年代に入る頃には、国際銀行家たちによる「日本刈り取りプラン」はすでに完成していたようだ。


発動は次の日米新政権である。81年、ロナルド・レーガンが大統領に、そして82年、日本側のカウンターパートとして中曽根康弘が総理大臣に就任する。

中曽根氏は若手政治家時代からロックフェラーやキッシンジャーと旧知の間柄だった。


また、レーガン政権にはあるキーマンがいた。

それがメリル・リンチ元CEOのドナルド・リーガンである。


レーガンが全幅の信頼を置いたウォール街の代弁者であり、財務長官に就任するや法人税引き下げなどの“レーガノミックス”を推進した。

レーガン政権は発足早々、日本に対して「安保タダ乗り」や「貿易不均衡」などを盛んに言い立て、貿易制裁をチラつかせては、市場開放を強く要求した。


こういった外圧で設置されたのが83年の「日米円ドル委員会」である。

ところが、実態は両国の「協議」とはほど遠く、日本側が直ちに飲むべき要求項目がすでに出来上がっていたという。


端的にいえば、それは日本の金融市場の開放を強く迫るものだった。

協議は異例のスピードで決着し、様々な規制の緩和、外資に対する参入障壁の撤廃、円の国際化、先物・オフショア市場の創設などが約束された。


これにより外資上陸の準備が整えられた。

今にして思えば用意周到な罠だったわけだが、当時は金融や経済の「国際化」という美名に置き換えられた。


そして、中曽根総理もまた経済政策の目玉として「規制緩和」と「民営化」を掲げ始めた。

85年9月、先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議がニューヨークのプラザホテルで開催された。


これにより円は200%もの円高へと向かう。

日本のドル国富が目減りし、日本企業の輸出力が弱体化する一方、ロスチャイルドからカリブ海タックスヘイブンの資金運用を任されたジョージ・ソロスは、猛烈な円買いドル売りで空前の儲けを手にした。


以後、ソロスは「ロスチャイルドの鉄砲玉」として国家主導の金融システムを攻撃し続ける。

一つの目的は、各国をグローバルな経済連携へと向かわせるためだ。


86年には米証券会社が東京証券取引所の会員になり、以来、外資系証券が続々と日本の金融市場に上陸を開始した。

87年、大蔵省がNTTの株式を市場に売りに出した。


日本電信電話公社の民営化は、国鉄のそれと並び、中曽根内閣の民営化政策の目玉である。

いわば「お上推奨」の株取引だった。


たちまち「NTT株で何百万円儲かった」などの話が巷間に溢れ、普通のサラリーマンや主婦の間にも投機熱が高まった。

88年、国際金融システムの安定化を名目に、国際取引をする銀行の自己資本比率を8%以上とする「バーゼル合意」(いわゆるBIS規制)が決められる。


奇妙なことに、邦銀には自己資本に一定の「株の含み益」を組み込む会計が認められ、これが自己資本率の低い邦銀をして、ますます株上昇への依存に走らせた。

しかも、やや先走るが、バブル崩壊後は、今度は「93年から規制適用」のルールが不良債権問題悪化や「貸し渋り貸し剥がし」の要因となり、日本経済をさらにどん底へと追い込んでいった。

 

バブル経済はこうして生まれ、急激に崩壊させられた


ここで日銀の金利政策を振り返ってみよう。

1980年3月、公定歩合は9%だった。


つまり、当時は銀行に100万円を預けると、1年後には109万円になるという、羨ましい時代だったのだ。

ただ、この金利は毎年のように引き下げられ、87年2月には、80年代を通して底となる2.5%をつけた。


今日のゼロ金利時代からすると、それでも預金に殺到したくなるほどの“高”金利だが、当時としてはこれが「戦後最低金利」だった。

とくに80年代後半の利下げには、プラザ合意による急激な円高も関係していた。


当時「円高不況・国内空洞化」が懸念され、大蔵省も日銀に利下げを要請したのだ。

一方で、通貨供給量は80年代後半から年間10%(だいたい数十兆円)レベルで増やされた。


当時は国債の発行高も少なく、金融も今ほどグローバル化していなかった。

その結果、膨大な低利の資金の大半が日本国内の債権と土地に向かった。


当時、株と土地を買うと、誰でも儲かった。

銀行は普通のサラリーマンや公務員、主婦にまで融資した。


「NTTの株で数千万円儲かった」とか、「土地の転売だけで数億円儲かった」などの話が、誰の周辺にも転がるようになった。

銀座のクラブでは毎晩札束が飛び交い、証券会社の20代社員が数百万円ものボーナスを貰った。高級ブランドの購入や海外旅行が当たり前になり、日本全体が熱に浮かされたようにバブル経済に踊った。


一方、まさにこの頃、金融自由化の下、外資が続々と日本に上陸していた。

この「戦後最低金利」は89年の半ばまで続けられた。


だから、80年代の初期から見ていくと、「80年代を通してずっと金融緩和・景気刺激策が行われた」とも言える。

ところがである。


やがて、あまりの土地の高騰などが批判されるようになる。

それが本当の理由か否かは不明だが、まさにバブル経済が膨れ上がったところで、日銀は、今度は一転して金融引き締め政策へと大転換した。


しかも、89年半ばから、わずか1年3カ月という短期間で、2.5%から6%へという、異常な引き上げを実施した。

これだけ短期間での急激な利上げは、今にして思えば暴挙としか言いようのない政策だった。


住宅ローンなどで多額の借金をしている人は、金利が上昇すると、どれほど返済に苦労するか、よくご存知だろう。

当時、急激な金利の上昇を受け、法人・個人は新規の借り入れを手控えた。


また、返済額の急上昇により、多くの投資家が「手仕舞い」を強いられた。

その「損切り」の売りが、また売り呼ぶという負のスパイラルが始まった。


しかも、日銀は、90年代に入るや、やはりそれまでとは一転して、今度はマネーサプライのほうも急減させた。

元栓そのものが絞られたので、銀行も融資を減らさざるをえなくなった。


つまり、金利通貨供給量の両面で、日本経済は急ブレーキを踏んだのだ。

さらに、その少し前に、ソロモンブラザーズ、モルンガン・スタンレー、ゴールドマン・サックスなどが内外で大量に売り捌いていた数十本ものプットワラント商品が、日経株価に対するレバの効いた空前の売り圧力として作用し始めた。


東証株式市場は雪崩を打ったように崩壊し始め、市場関係者はパニックに陥った。

著名な株価評論家や相場師までが大損し、誰もが「市場で何が起こっているのか分からない」と首を傾げた。


日銀と外資だけでなく、大蔵省までが軌を一にして急ブレーキを踏んだ。

それが90年3月に実施された「不動産総量規制」という金融機関への行政指導である。


簡単にいえば「不動産向けの融資を減らせ」という内容だが、当時、大蔵省銀行局長の通達といえば命令と同じである。

不動産価格の高騰を抑えるのが目的だったが、銀行から融資を受けて不動産に投資していた事業家にしてみれば、いきなり元栓を締められたのと同じだった。


このように、主として「日銀の金融政策」「外資による空売りの仕掛け」「大蔵省の銀行指導」という三つの要因によって、バブル経済は突然崩壊させられたのである。


結果として、日本に金融市場の開放をねじ込んだ当事者たち――ウォール街とその手先――に史上空前ともいえる所得移転がもたらされたのであった。

 

~~~
【超真相】日本経済を“丸ごと刈り取った”ユダヤの陰謀とは? バブル経済崩壊、その巧妙な手口を完全暴露!
exciteニュース 2016年11月8日
https://www.excite.co.jp/news/article/Tocana_201611_post_11394/

 

 

 

 

 

 

久米宏が終了決定のTBSラジオ番組で田中眞紀子とタブートーク自民党電通の癒着、岸信介のA 級戦犯・無罪問題まで

exciteニュース 2020年6月15日

https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_litera_10900/

 

 

 

■日本人が知らない「闇歴史」~アメリカに支配された70年の真実~

日刊大衆(2015/9/21)

https://taishu.jp/articles/-/45710?page=1

 

 

 


■安倍首相の「安保法制」妄執の背景に、敬愛する祖父・岸信介A級戦犯を逃れるため米国と交わした裏取引きが!

exciteニュース 2015年8月17日

https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_1400/

 

 

 

安倍晋三の祖父・岸信介はこうして「極刑」を免れた~明かされるGHQ尋問の真相

岸信介は同じA級戦犯容疑者ながら、翌年3月初旬まで一度も尋問を受けていない。GHQにとって、岸より木戸のほうがはるかに重要な人物だった」

週刊現代講談社)2016.09.25

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49732